てんびん座
地獄の前衛
ジョーカーの札的存在
今週のてんびん座は、閻魔堂の奪衣婆像のごとし。あるいは、周囲でひとりだけ異質なジョーカーのような存在になっていこうとするような星回り。
人は死後、死に装束を着て三途の川を渡るとされ、そこで地獄いきか極楽へいけるかがかなりの程度決まってしまうのですが、それを決める絶対的存在が「奪衣婆(だつえば)」と呼ばれる女神です。
この女神は川のほとりにいて、死者を待ち受けてはその衣をはぎ取り、「衣領樹(えりょうじゅ)」という大木の枝にかけては、枝のしなり具合で死者の罪の重さを量るのです。そんな恐ろしい存在である奪衣婆は、地獄絵などを見ると乱れた長い髪に半裸姿で目を剥き大口をあけた醜い姿で描かれているのですが、じつは各地の十王堂(死者を裁く十王が祀られているお堂)などに残された彫像を見ると、ずいぶんと印象が違っていることに気が付きます。
全体的には醜く恐ろしいフォーマットに則ってはいるのですが、よく見ると表情がどこかやさしげだったり、ちょい美人だったり、食堂の名物おばちゃんみたいに溌溂(はつらつ)とした爽やかさをまとっていたり、夜の女のごとき色っぽさをたたえていたりと、一体一体の個性が目立っていて、自由でいきいきしているのです。
おそらく、閻魔王をふくむ他の十王がみんな中国人的でフォーマルな格好で姿勢をただしているのに、奪衣婆だけが日本人的でカジュアルにも程がある格好をしていることも大きいのでしょう。実際、各地の奪衣婆像にはその土地土地の信仰やイメージが入り混じり、山姥や鬼子母神、乙姫や小野小町など、いろんな女神を吸収合併していて、トランプの札で喩えるなら、地獄でひとりだけ異質なジョーカーの札のような存在になっている訳です。
8月31日にてんびん座から数えて「美学」を意味する6番目のうお座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、決まり切ったフォーマットに自身をはめこむのではなく、むしろそこから自由になっていくべく、セルフイメージの吸収合併に励んでいくべし。
腐敗していくセルフポートレート
奪衣婆の実例として思い出される人物に、シンディ・シャーマンがいます。「前衛の女王」とも呼ばれた彼女は、70年代後半から自分自身を被写体としたセルフポートレイトの代表的なアーティストとして知られていきますが、80年代後半には「ディザスター(惨事にて)」という連作において、自ら汚物や腐敗物の支配する風景の中で死体を演じたり、異形の動物や怪物に扮することで、恐怖、病、死といったネガティブな観念を自己像の解体過程と見事に結びつけていきました。
写真は単に美しい作品として存在するだけでなく、見る側と見られる側との間に一種の権力関係を生じさせます。見る側、鑑賞する側は、見られる側を値踏みしたり、商品として買い取ろうとするために、撮り手や作り手もそうした“パトロン”にできるだけ気に入られるよう作品を作ろうとするようになっていく訳です。
そうした傾向に対し、シャーマンのセルフポートレイトは権力関係からの逸脱に他ならず、権力関係によっていかに人間の不愉快な側面が排除され、作品の評価が歪んでしまうかということをえぐり出しているのだとも言えます。
同様に、今週のてんびん座もまた、ここで改めて「見る/見られる」関係のなかで夢見られたユートピアから泥にまみれたリアルへとまなざしを引き戻していくことがテーマとなっていくでしょう。
てんびん座の今週のキーワード
汚泥の中からこそ白く美しい花は咲く