しし座
ボールを投げ放す
ボナンゴしちゃうか
今週のしし座は、ボンガンドの人びとの投擲的発話のごとし。あるいは、普通より大きな声で、相手を特定せずに発話していく機会を増やしていこうとするような星回り。
赤道直下のザイールの熱帯雨林に住む農耕民ボンガンドの村に滞在した人類学者の木村大治は、この村社会の特徴をつねに「声に満ちた空間」なのだと表現していました。家の中に座っているだけでも、ほとんど間断なく誰かの声が外から聞こえてくるため、ほとんど一日中ラジオが流れているようなものなのだとか。
中でも興味深いのが、現地の人が「ボナンゴ」と呼んでいる種類の発話で、ボンガンドの人は、村の中にある広場で、時おり大声で朗々としゃべり始めることがあるらしく、村の人たちにニュースを知らせたり、ものごとを教えたりしているだけでなく、何か超自然的な対象に向かって「わしらを困らせるな、放っておけ」というようなことをしゃべっているのだとか。ただ、懸命に力を込めて語っている割には、それが聞こえているはずの人たちはその語りにあまり興味を示すことなく軽く受け流している。
これは逆に、語る方も聞き手がそうして受け流してくれるだろうことを承知で、いわば無責任に会話を「投げ放」しており、聞き手も真剣にはその発話に関与しない。そういう形で成立しているんですね。
それは、日本人が大事にしてきた「わかり合う」ことや「ふれ合う」こととはかけ離れていますが、だからと言って決して無意味なものでも、遅れているわけでもありません。ただただ、日本人のそれとはコミュニケーションのあり方が極めて対照的なのであって、そういうものに接していると、何が望ましいコミュニケーションなのかという固定概念もまた次第に曖昧になっていくはず。
1月21日にしし座から数えて「他者との関わり方」を意味する7番目のみずがめ座へと冥王星が移っていく今週のあなたもまた、身近なひとりひとりに丁寧に、しずかに語りかけるというある意味で「日本的な」コミュニケーション以外の可能性にも開かれていきたいところです。
一人ではなく、みんなでやる詩
知っている人は知っている前提の話ですが、俳句というのは連歌・俳諧の発句や脇句、前句に対する付句のなかでの初めの五七五であり、明治以降、正岡子規が独り立ちさせていったものでした。
つまり、もともとは「“みんな”でやる詩」なのであって、著しく“個”の創作性に傾いた近現代の文学と見事なまでの対照をなしているのです。
同調圧力の暗い膜を<わたし>の一点から突き破っていこうとする傾向があるしし座の人たちにとって、多人数による連作形式をとっていた原初の俳句の在り様というのはおそらく最も抵抗を感じる文学形式の一つでしょう。しかしだからこそ、至極まっとうに生き恥を晒すには最良の近道と言えるのかも知れません。
今週のしし座もまた、そうした何らかの通過儀礼を経ていくことがテーマとなっていくでしょう。
しし座の今週のキーワード
かっこいい個であることから、自分を解放させていく。