かに座
純粋であるために
愚かに見える相手ほど大切にすること
今週のかに座は、『糸瓜さへ仏となるぞ遅るるな』(正岡子規)という句のごとし。あるいは、糸瓜もわれもみな同じ穴のむじなよなと割り切っていこうとするような星回り。
若くして晩年を迎えた作者が、病床から見える風景を詠んだ一句。前書きには「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」とあり、それを眼前の糸瓜に感じ取ったのでしょう。
「遅るるな」という言い方もどこか中世の坊さんの説教チックで、この句を詠んだときの作者は日本の伝統的な死生観に没入しきっていたのかも知れません。
庭でただただこうべを垂れてジッとしている、いかにも愚かそうな糸瓜(へちま)でさえも仏になるのだ。決してわれも糸瓜に遅れをとってはならないという訳ですが、得てして愚かに見える相手ほどこうした仏縁で深く結ばれているものです。
逆に、いざとなれば自分からあっさり離れていくような相手にばかり、日頃から私たちは執着しがちだったり、本当に大切にすべき相手や縁が最後まで分からなかったりする。そういう前提で周囲を見渡すとき、かえって掲句の真意がつかめてくるような気がします。
11月1日にかに座から数えて「死にざま」を意味する8番目のみずがめ座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、身近な糸瓜との縁をあらためて見直していくべし。
常住死身
人はほんらい、狩られるべき獣に殺され、喰われることだってありうる立場の存在です。本当の意味で海や山と共に生きてきた人は、そのことをよく分かった上で、わが身をときに自然に贈与することと引き換えに、獲物を得ている。ひるがえって、私たちはどうでしょうか。
大いなる自然の食物連鎖など知らぬ存ぜぬと言わんばかりに、金銭で獣や魚の肉を買い、安全な場所で食らう。もちろんそれは町にいれば当然のことではあるのですが、自然の循環から遠く離れたところで、狩られた野生のいのちではなく、屠られた家畜の成れの果てを吸収し続けていれば、自身もまたいのちの枯れた死に体に近づいていくのも自然な成り行きではないでしょうか(その意味で、現代人はすべからく糸瓜に遅れをとっている)。
ある狩人は、「忍び撃ちは卑怯だ」と語ったそうです。数百メートルも離れたところから、ライフル銃で熊を撃つことを指して、ぽつりとそう言ったのである。彼らの中には、賭けにも似た、捨て身の贈与を介して初めて成り立ついのちの思想が息づいているのでしょう。
今週のかに座のテーマは、自分が捨て身で居られるフィールドを見出していくこと。そこにこそ、今後歩んでいくべき道が広がっているように思います。
かに座の今週のキーワード
エイヤと放ったところで自分がどこかに浮かんで句ができる