みずがめ座
つくりものはいつか壊れる
しずかな慰め
今週のみずがめ座は、『葬の前の物争ひや冬日落つ』(石島雉子郎)という句のごとし。あるいは、物事の終わり際をしかと心におさめていこうとするような星回り。
ある葬儀をとりおこなうことになったが、実際に弔いをする前に主催側の世話人のあいだで何やら争いごとがおこって進行が遅れてしまい、すっかり日が落ちかかってしまっているのだという一句。
身内同士の物争いなど、いかにも苦々しく、体裁が悪いと思われがちですが、作者自体はあえてその物争いを非難しているわけでもなく、かと言って称賛したり煽ったりしているわけでもなく、ただその事実について触れているのみで、と同時に西日が落ちていく侘しげな光景をそこに重ねています。
もはや起きてしまった以上は、誰が正しくて誰が間違っているのかといった事の是非をことさらに論じてみても、かえって争いがこじれるだけだということが、おそらく嫌というほど身に沁みているのでしょう。
作者にとってはそれよりも、人の一生にしろ、1つの時代にしろ、物事の終わり際というのはあっさりとした風だったり、無情で残酷な仕方であったりと個々様々に差はあれども、どんなものにも等しく平等に訪れるという点では変わりなく、そこに作者はしずかな慰めを感じていたのではないでしょうか。
12月5日に自分自身の星座であるみずがめ座のはじめで冥王星と月が重なっていく今週のあなたもまた、できるだけ火種や因縁を無駄に煽るのではなく、そっと消していく方向に意識をもっていきたいところです。
「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」
唐代の劉延芝によるこの詩の一節は、「自然のそれと違って、人生はみじかくはかない」という逃れがたい事実を歌っていることで有名ですが、よくよく考えてみると必ずしもそうではないことが分かってきます。
というのも、そうした認識自体は別に「客観的」である訳ではなく、むしろ全生物のうち人間のみが有する個別性に対する執着や、それのもたらす感傷みたいなものに過ぎないから。「人生はみじかい」という時の「みじかさ」も、他と比べての相対的な短さへの不満というより絶対的なむなしさに対する嘆きがたまたまこういう形をとったのでしょう。
つまり、ここでは「時間」は事実というより感覚であり、“つくられたもの”である以上、心身の在り様や環境を変えてみることで“そうじゃない”時間感覚へと切り替えていくだってできるはず。例えば、社会学者の真木悠介はそうしたオルタナティブな時間感覚について次のように述べています。
われわれが、現時充足的(コンサマトリー)な時の充実を生きているときをふりかえると、それは必ず、具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているときだ。(『時間の比較社会学』)
今週のみずがめ座もまた、そんな「時間の相対化」ということが一つのテーマになっていくでしょう。
みずがめ座の今週のキーワード
つくりものとしての時間感覚を溶かす