かに座
真夏の誠実さ
怪談が語られ続けてきたわけ
今週のかに座は、よくできた怪談語りのごとし。あるいは、真夏特有の実在感覚にリアルな自己表現を与えていこうとするような星回り。
仏教のお盆の行事が始まるずっと古い時代から、人間は真夏の夜になると好んで怪談が語られてきました。そして江戸の百物語から稲川淳二まで、怪談語りの面目躍如はこの世との境界が薄くなって、この世にずずいと侵犯してくる死者たちの領域にまさに触れんとしている夏の夜の感覚を、いかにリアルに物語ることができるかというところにありました。
すなわち、いくら怖くても、まったくの架空の世界の、この世では起こりそうもない話ではダメなのです。現実の世界に、じっさいに存在する場所で、日常世界とは必ずしも重なっていないもう一つのアナザーワールドとの接点が確かに実在したんだ、というなまなましさが何よりも重要なのであって、言わばそうした人間界と自然界とのつながりの痕跡や状況証拠として、怪談は語られ続けてきた訳です。
その意味で、怪談話の成功、ないしよりよき怪談語りとは、単につくり話で人を怖がらせることにあるのではなく、多くの人の無意識のうちに感知している空間構造の微妙な変容に、できるだけ共感しやすいストーリーを通して共有していくことのうちにあるのであって、それに比べればワイドショーを賑わす芸能ニュースや政治的闘争なんかは圧倒的に“つくりごと”なのだとも言えるのではないでしょうか。
26日にかに座から数えて「自己表現」を意味する5番目のさそり座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、うすうす感づいていたこの世界の変容について、自分なりの感覚や体験を通じて語り出していくべし。
佐々木喜善の場合
例えば、柳田國男の協力者として『遠野物語』に出てくる日本の昔話の採集や研究に熱心に打ち込み、折口信夫をして「グリム以上だ」と言わしめた人物に、佐々木喜善という人がいます。
彼の採集した話を読んでいると、「われわれ日本人のなかには、いまだに原始人が棲んでいる」(鶴見和子)とつぶやきたい気持ちにさえなってきます。『遠野物語拾遺』から彼の収集した場所の記憶を以下引用しておきます。
村々には諸所に子供らが恐れて近寄らぬ場所がある。土淵村の竜ノ森もその一つである。ここには柵で結ばれた、たいそう古い栃の樹が数本あって、根元には鉄の鏃(やじり)が無数に土に突き立てられている。鏃は古く、多くは赤く錆びついている。この森は昼でも暗くて薄気味が悪い。中を一筋の小川が流れていて、昔村の者、この川でいわなに似た赤い魚を捕り、神さまの祟りを受けたと言い伝えられている。この森に棲むものは蛇の類などもいっさい殺してはならぬといい、草花のようなものもけっして採ってはならなかった。
たかだか100年ほどしか経っていない近代世界において、これほど神さびた雰囲気を漂わせた実話が収集されたことには驚きを禁じ得ません。ですが、そういう「子供らが恐れて近寄らぬ場所」に、佐々木喜善その人は不思議なほどのリアリティーと同時に、ある種の尊さを覚えたからこそ、文字にし記録していったのでしょう。
ただし『遠野物語』の序文に「鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分も亦……」とあるように、佐々木喜善は稀代の民話収集家ではあったものの、決して老練な語り部ではなかったようです。
今週のかに座もまた、たとえ拙いものであったとしても、心の奥底にある心象風景や居並ぶ顔たちを裏切らず、出来る限り自己内部の彼らに応えるように、伝えていくべし。
かに座の今週のキーワード
「話上手には非ざれども誠実なる人なり」