さそり座
しあわせの由縁
一語の重み
今週のさそり座は、『熱燗の夫にも捨てし夢あらむ』(西村和子)という句のごとし。あるいは、分断を乗り越えて繋がっていくための言葉を咄嗟に紡ぎ出していくような星回り。
この句は作者が24歳で結婚してから8年ほど過ぎた頃のもの。2人目の子供ができたこともあって、当時はもう俳句をやめなければと悩むほどに時間が取れなくなっていたそうで、そんなある夜、仕事から帰ってきて晩酌をはじめた夫の横顔を見ていて、なんとなく口をついて出てきた言葉がそのまま五七五に乗って句になったのでしょう。
自分以上に、ほとんど自分の時間がないくらい毎日遅くまで働いているにも関わらず、穏やかな笑みを浮かべているこの人にも、自分の知らない夢があって、それらを無言のうちに捨ててきたがゆえに、今日というしあわせがあるのかも知れない。いや、きっとそうなのだ、と。
それは単に夫を思いやるやさしい妻、男への愛情を募らせる女である以前に、同じ苦しみや悔しさを乗り越えてきた人間同士の深い共感と労わりが根底にあって、それが「夫にも」の“も”という形でそっと示されているのです。
この句が作られたのは1970年頃。戦後に憲法で男女平等が保障され、女性をしばりつけていた家制度も改正され、1967年には国連総会で「婦人に対する差別撤廃宣言」が採択されたものの、まだ男女雇用機会均等法も制定されていなかった当時は、今よりずっと女性が自分のキャリアを諦めなければならなかった度合も大きかったはず。そのことを考えると、「夫にも」という一言がどれだけ重く、簡単には言えない言葉であったかが分かります。
1月22日に自分自身の星座であるさそり座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、「私の方が」や「あんたなんて」という言葉を吞み込んで、その代わりに「私なんて」や「あなたもまた」という言葉を呟いていきたいところです。
「私は」と「私に」
ヒンディー語では、「私はうれしい」というのは「私にうれしさがやってきてとどまっている」という言い方をするのだそうです。つまり、「私は」ではなくて、「私に」で始める構文があって、それを「与格」といって、これが現代語のなかにもかなり残っていて、「私は」と「私に」のどちらで始めたらいいのか初学者は非常に混乱するのだとか。
しかし考えてみれば、「私は」という言い方は、ある行為を意思によって所有している前提に立っている訳ですが、たとえば「私は〇〇という人間と結婚した」という事態ひとつ取ってみても、本当にその状態(=結婚)が私に起源を持つのかは疑わしいと言わざるを得ないのではないでしょうか。
逆に「私に」というのは、ある種の不可抗力によって〇〇がやってきたという現象を指している訳で、それは「風邪をひいた」とか「恋が芽生えた」といった事態を前にしたとき、私が意図的にそれを抱こうとしてそうなったのではなく、やはりどうしようもなく私にやってきてしまったと受け取るのが自然な場合は案外多いのではないかと思います。
ただ、それがどこからやってきたかというと、インド人にとってはそれは神々であったりする訳ですが、日本人であればそれは先祖の因縁であったり、森の奥の暗がりである方がリアリティがあるかも知れません。
今週のみずがめ座もまた、何かと「私に」という構文において自分の直面している事態を言い表してみるといいでしょう。
さそり座の今週のキーワード
素直になっていくための儀式