おとめ座
美醜と良心
顔と鏡
今週のおとめ座は、「美しひ顔で楊貴妃豚をくい」(『柳多留』)という句のごとし。あるいは、美醜の境界線が溶け出して、自分の良心が浮かびあがってくるような星回り。
『柳多留』は江戸時代の川柳集。楊貴妃と言えば、風に揺れる柳のような美女の代名詞。そんな隣国の美の象徴にそっと横やりをさす一句。もちろん楊貴妃だって他の大勢の人と同じく豚を食べたでしょう。
不思議なもので、「美しひ」と「くい」が同じ音でかかっていることもあってか、掲句のように言葉を並べられると、自然と楊貴妃の顔の横に豚の顔が浮かんでくる。そうすると前者と後者の関係は、単に食べ食べられという関係に帰着し、形としての美醜はどんどん揺らいでいきます。
それよりも、はたして楊貴妃自身は、豚を食べている自分の顔を想像し、その時の顔を好きだと思えたでしょうか?
もちろん、若い頃は美醜の方に目がいきがちですが、年をとるに従って、自分の良心にどこまで応えてきたかが顔に現われるようになってくる。逆に、自分の良心がいまの自分を許していないと、どうしても自分の顔が嫌いになってくるんです。
今週は形としての美醜を超えたところで、自分の顔を見つめ直していくことになるかもしれません。
いくつもの顔を持つということ
そういえば、ドイツの詩人で小説家のリルケは『マルテの手記』のはじめの部分で、なかなか凄いことを書いていました。
いわく、何億もの人間が生きているが、それよりももっと多くの顔があると。みんないくつもの顔を持っているからだ。
長い間ひとつの顔を持ち続けている人もいるが、同じ顔を使い続けていればやがて使い古されてしまう。余分になった顔は子どもにあげてしまうかもしれないし、飼い犬がその顔をもって道端を歩いているかも。顔とはそういうものなのだ、と言うのです。
さらに、彼はこう続けます。なかには不気味なほど早く顔をつけたり外したりする人もいる。自分ではいつまでも顔のかけかえがあると思っているが、40歳になるかならぬかで、最後の1つになってしまう。これは悲劇である。
彼らは顔を大切にすることを知らなかったのだと。
ひとつの顔に固執することと、顔を大切にするということは違いますが、それもやはり良心の置き方次第なのだと言えそうです。
今週のキーワード
『マルテの手記』