
おとめ座
いつもの街の、見たことのない景色の再発見

不道徳小屋にて
今週のおとめ座は、「アジール(避難所)」としての占いライターと読者の関係のごとし。あるいは、自分なりの‟倫理の埒外”を誰かと共に作りあげていこうとするような星回り。
往々にして「仕事として占いをしている」などと言うと、どうにも決まりがわるくなる。小首をかしげられるくらいならまだいいものの、真っ向から否定されたり、憐みを向けられる、というのが社会の一般的な反応でしょう。
しかし、それでも占いは気の遠くなるようなはるか昔からなくなることなく社会のなかに存続してきた。このことをどう理解したらいいのだろうか。例えば、ライターの石井ゆかりは『占いという「アジール」』というエッセイの中で、ありがちな社会の反応が起こるのは占い(特に星占い)がもつ2つの特徴によるのだと述べています。
星占いには、一切の合理的・理性的・科学的根拠がない。占いは、論理的には「自由意志」に背を向ける。
それゆえ、少なくとも現代社会では「占いは不道徳だと「されねばならない」のである」と。しかし、彼女はすかさず「倫理的で道徳的なものだけがこの世に存在してもいい、ということではないと思っている」とも書き、「倫理や道徳という世界観には、「外側」がある」と思っている」のだと言うのです。
占いは関わりの外側にある幾多のアジールの一つ、他者との関係から切り離されて自分ひとりになった人間を救うためのものだ。人は「信じるか信じないか」を、選べない。口でなんと言おうと、心の奥底に引っかかる。感情の深奥がそれを呼ぶ。「あと数カ月でこの問題は解決しそうですよ」というその不可解な予言を胸の奥にこっそり握り締めたとき、明日を生きる小さな希望が湧く。占いは、倫理の埒外になければならないのだ。
確かに、いくらSNSで不倫で炎上した芸能人が親の仇のごとく叩かれようと、この世にはどうしたって道徳的に「善く生きる」ことができない人や、本人の意図しないところで思いがけず‟やましさ”を抱えてしまう人がたくさんいて、その意味で、雑誌やメディアに掲載されている占いというのは、逃げ出した先にそっと置かれている宛先のない手紙のようなものなのかも知れません。
6月11日に「寛容さ」を象徴する木星がおとめ座から数えて「社会に求めるもの」を意味する11番目のかに座に移っていく今週のあなたもまた、世界の‟外側”に小さくささやかな避難所を作っていくことが改めてテーマとなっていくでしょう。
「分かりやすさ」の外にあるもの
例えば、普通のメールのやり取りの中に、ポンと俳句をはさんだら、世間の大半の人はそれをなんか変だなと思うか、どう反応したらいいのか分からなくてスルーして終わってしまうかも知れません。
けれど、人と人、いやそのおおもととなっている人と自然の関係というのは、本来そんなに簡単に分かり合えるものではありませんし、散文と散文のあいまにはさまっている一見意味不明な詩や俳句もまた、そんな分かり合えない相手(自然、宇宙)をなんとか受け止め、取り込もうとする必死のもがきであり、声なき声をなんとか人の言葉に置き換えんとするコミュニケーション上のチャレンジに他ならないはず。
その意味で今週のおとめ座は、コンクリートで固められた街のすきまを縫うように、路地裏や道のはしっこを流れている水路を通して、ふだんなら目にとめないものに目をとどめ、いつもとは少し違う角度から人と響きあう。そんな社会的に‟正しい”文脈から大いに外れたコミュニケーションに取り組んでいくにはもってこいのタイミングと言えそうです。
おとめ座の今週のキーワード
宇宙の力を借りて倫理の埒外に突きぬけていこうとする試み





