
おとめ座
音連れとしての訪れ

視覚優位から聴覚優位へ
今週のおとめ座は、『見えざるも耕運機行き返す音』(右城墓石)という句のごとし。あるいは、視覚に偏り過ぎた感覚バランスを整え直していこうとするような星回り。
春になると田植えや畑作の準備などで、冬のあいだ眠っていた田畑を耕しはじめますが、俳句ではそれを「田打」や「畑打つ」などの春の季語とされてきました。
昔は人の手や牛馬の力を借りて行われていた「耕し」も今やすっかり機械化され、活躍するのはカタカタという発動機音と田畑を響かせる「耕運機(こううんき)」などに様変わりしています。
掲句の作者は、おそらく家の中でその耕運機の音を聞いていて、家のそばに田んぼがあって、そこで稼働している耕運機の音が遠ざかったり近づいてきたりを繰り返している。それで、最初はなんとなく耳に入ってきたのが、ずっと聞いているうちに直接目では見ていなくても、その全体が深く耕されていく田んぼの姿が頭にはっきり浮かんでくるようになったのではないでしょうか。つまり、聴覚が先にあって視覚が後にあるわけです。
人間の目というのは、空間的にも時間的にも近くのものや「いま」を見るようにできていますが、逆に「耳をすます」や「耳が早い」などの慣用句などからもわかるように、耳というのはどちらかと言うと、遠くのものや「いま」からかけ離れたものを聞くようにできています。
その意味で、4月21日におとめ座から数えて「順序」を意味する6番目のみずがめ座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、少し遠い先の未来に耳をすませたり、今ここにないものへ耳を傾けたりといったことを心がけてみるといいでしょう。
目に見えないけれど聴こえてくるもの
お葬式の席では、死んだ人の悪口を言ってはいけないなどと昔からよく言いますが、それは五感のうち最後まで残るのが聴覚だからであり、たとえ意識や生命活動が失われていようとも、こちらの声の波長が伝わってしまうことがあるからなのだそう。
考えてみれば、人間は日頃から聴覚を基底に生きているのかも知れません。たとえば、私たちは朝、窓の外から聞こえる鳥のさえずりや通行人の話し声、車の音などとともに目覚め、日中は街の喧噪の中で活動し、夜になれば無性に誰か人の声が聞きたくなってスマホに手を伸ばし、SNSに興じる。
そして、そこでの<音>というのは、聞こうとして初めて深く感じとれるものであり、いくら音量を大きくしても、こちらの心が相手の波長に合っていなければ、大切なことは何も聞こえてきやしないのではないでしょうか。
旧約聖書において、いにしえのユダヤの詩人は「人の口の言葉は深い水のようだ、知恵の泉は、わいて流れる川である。」(箴言18章4)と歌いましたが、そうした体験は真に心を傾けたいと思える対象をじっと心待ちにしたことのある者でなければ不可能なのだと言えます。そう、さながら涸れてひからびた川のように。
今週のおとめ座もまた、欠けていく月とともに今の自分には何が不足しているのか、心を傾けるべきはどこなのか、おのずと研ぎ澄まされていくことでしょう。
おとめ座の今週のキーワード
心の琴線に触れる音を待つ





