
おとめ座
そうでなかった自分に成る

新参女中物語
今週のおとめ座は、『新参の身にあかあかと灯りけり』(久保田万太郎)という句のごとし。あるいは、ある種の“コスプレ”をして現実に臨んでいこうとするような星回り。
その通りの言葉は使われていないものの、季語は「出替り(でがわり)」で、年季を終えた奉公人が交代することで、今で言う人事異動のようなもの。
江戸時代に武家や商家に雇われていた奉公人は1年契約で、その切り替え時が3月だった。そして、そこで新しくお目見えする者を「新参」と呼んだわけです。
ただ「あかあかと灯りけり」は単なる情景描写ではなく、新参の人間の心理に立ち入ったものでしょう。つまり、灯をまぶしく見ているのはあくまで作者ではなく、新参の眼であって、自分が新しく入ることになった家をそのように見ているのです。
この句が作られたのは大正時代でしたが、その当時はすでに東京の下町でもこうした出替りの風俗はすでに消えてしまっていたはずですから、作者はすでに現実には見られなくなった昔の風習を、あえて想像の上でなまなましく詠んでみせたのだと考えられます。
作者は小説家、戯曲家でもありましたから、この句は主人公=作者という現代俳句の通例を排して、芝居の舞台の上で時代劇が演じられているものとしてみると鑑賞しやすいはず。
3月14日に自分自身の星座であるおとめ座で月食満月(大放出)を迎えていく今週のあなたもまた、そんな時代劇ごっこのノリを自身に纏わせてみるといいでしょう。
ここではないどこかへ連れ去られるために
高度に情報化された現代社会では、“賢く有能な”人ほど情報の取捨選択にコストをかけ、どこかの時点で意図的に情報収集をやめて行動に移ろうとしていきますが、そういう意味の過剰さや「意識の高さ」にくたびれきってしまった人も多いのではないでしょうか。
そうした主体の理知のもとでの行動の中絶を、哲学者の千葉雅也は『勉強の哲学―来るべきバカのために』の中で、「意味的切断」と呼んでいますが、他方で「非意味的切断」ということについて次のように述べています。
すぐれて非意味的切断と呼ばれるべきは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害といった「有限性finitude」のために、あちこちに乱走している切断である。
そして興味深いことに、千葉やこのタイプの切断の重要性を指摘した上で、それを「そうでなかった自分に成る」ためのテクニックとして肯定的に活用しようと畳みかける。
私たちは、偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として「善用」するしかない。
今週のおとめ座もまた、「自分が求めていたものを得る」のではなく、むしろ見知らぬ自分になっていくための行為として勉強に励んでいくべし。
おとめ座の今週のキーワード
偶然性の波の上にのっていくこと





