
おとめ座
幻想に食われないために

吉本隆明の共同幻想論
今週のおとめ座は、鷹匠の話を解釈する吉本隆明のごとし。あるいは、自分を<死>に追いこむような強迫観念をどうにか解消していこうとするような星回り。
『遠野物語』の中にこんな話があります。遠野の町に鳥御前という鷹匠がいて、きのこを採るために山に入ったところ、赤い顔の男女が話しているのに出くわした。2人は鳥御前を見ると制止しますが、鳥御前は怪しいと思い、持っていた刃物で斬りかかる。その際、男性に蹴られて気を失い、介抱されて自宅に戻ると一部始終を話し、「こんなことは今まで出逢ったことがなかった、おれはこのために死ぬかもかもしれない」といって3日後に死んだという。山伏は家族に、これは山の神が遊んでいるのを邪魔したことによる「祟り」だと告げた。
素朴に受け取れば恐ろしい山の怪異を伝えるものと考えられるこのエピソードについて、吉本隆明は『共同幻想論』のなかで次のように解釈しています。
ようするに「鳥御前」は幻覚に誘われて足をふみすべらし、谷底に落ちて気絶し、打ち所が悪かったので三日ほどして<死>んだというだけだろう。けれど、「鳥御前」がたんに生理的にではなく、いわば総合的に<死>ぬためには、ぜひともじぶんが<作為>してつくりあげた幻想を、共同幻想であるかのように内部に繰り込むことが必要なはずだ。いいかえれば山人に蹴られたことが、じぶんを<死>に追い込むはずだという強迫観念をつくりださねばならなかったはずだ。そしてこの場合、「鳥御前」の幻覚にあらわれた赤ら顔の男女は、共同幻想の表象に他ならないのである
確かに、所属する共同体の中で祟りなどの幻想が信じられている場合、たとえかすり傷を負っただけでも、人は床に伏し、食べ物を拒絶して衰弱死することもある。ここでは死とは、単なる肉体の消滅ではないという意味を強調するために、「総合的」という言い方をしたのでしょう。そして、こうした「総合的な死」をみずから呼び込む者は現代日本にいまだ巣食っている大小の村社会的共同体においても後を絶たないように思われます。
2月21日におとめ座から数えて「共同幻想」を意味する4番目のいて座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、もし自分が作為的に加担している幻想があるならば、その必要性の是非について、いま1度考えを巡らせてみるといいでしょう。
Between the Worlds
ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の終盤、夢の世界「ファンタジーエン」での冒険を終えた主人公バスティアンに向かって、謎の本「はてしない物語」の持ち主は、次のように語りかけました。
ファンタジーエンに絶対に行けない人間もいる。……行けるけれども、そのまま向こうに行ったきりになってしまう人間もいる。それから、ファンタジーエンに行って、また戻ってくるものもいくらかいるんだな、きみのようにね。そして、そういう人たちが両方の世界をすこやかにするんだ
そう、夢と現実の両方の世界をすこやかにするためにこそ、祈りや儀式は行われるし、小説もまた書かれる。民話や伝承も伝えられるし、共同幻想も紡がれる。だからこそ、それらは何かぶっとんだ非日常なんかではなくて、人間が人間らしくあるために、この世界の片隅で粛々と日々実践されていかねばならない「生命線」でなければならないのです。
今週のおとめ座もまた、そんな生命線をどこにどう引いていくのか(デザイン)を改めて考え、そしてみずからの手で実践してみてください。
おとめ座の今週のキーワード
幻想か現実かの二者択一を超えて





