おとめ座
さみしさを分泌する
男女のコミュニケーションのスタイルの違い
今週のおとめ座は、『開くる人を待つかに襖(ふすま)夜長けれ』(長谷川零余子)という句のごとし。あるいは、生々しい人間味をどうにか浮き上がらせていこうとするような星回り。
秋になって夜が長くなってくると、普段なら考えないようなことをついつい考えてしまうものですが、掲句もまたそんな夜に静かに襖の閉まっているのを見たときに、ふと作者のうちに起った“感じ”をそのまま詠んだのでしょう。
夜の沈黙の中に佇む襖は、まるで「誰か開けてくれる人はいないかなァ」と、その開ける人をじっと待ち続けているように見えると。一介のモノに過ぎない襖を魂の宿った生き物のごとく見立ている訳ですが、これは作者の心持ちのごくシンプルな投影でもあります。
つまり、作者は自分の感情を直接的に言葉に乗せて話す代わりに、わざわざ物言わぬはずの襖など引っ張り出して自分の心情を代弁させるという遠回しなことをしている。これは俳句という文脈を外して考えみると、鎧を着ないと誰かに胸の内を話すことすらできない「男性的なコミュニケーション」の典型であり、それはどこかおとめ座の人がとりがちなコミュニケーションの仕方とも通底しているのではないでしょうか。
対して、女性の語る言葉は男性に比べとても素直です。「誰が」「何を体験して」「どう思ったか」をストレートに語るので生々しいし、話があちこちに飛んでいるように見えて、じつは一貫して同じことを言っていることが多い。別にどちらが優れているという話ではないですが、掲句は双方的なおしゃべりを前提とした作品というより、一方的な独白をまじえたドキュメンタリー作品として鑑賞するほうが、感じが掴みやすいように思います。
10月3日におとめ座から数えて「実存」を意味する2番目のてんびん座で新月(種まき)を迎えていく今週のあなたもまた、自分自身を対象としたドキュメンタリー映画を回しているようなつもりで過ごしてみるといいかも知れません。
生霊放ちとしての自己表現
しかし考えてみれば、何かを書いて人に読んでもったり、人前で話したりするということは、そこに言葉が介在するかぎり、その人の一番奥の方に巣くっている生霊(いきすだま)を放ってしまうということであり、普段自分でも忘れている生への恐れや、うわべでは上手に隠している悪の部分を巷間へ透かしこんでいくということでもあります。
したがって、人を傷つけもすれば、みずからも血を流す行為であり、考えれば考えるほどすれすれの振る舞いである。しかもそれを何かしら「芸」として売り出すようなあざとい真似をしている者なら、皆すべからくロクデナシと決まっているわけです。
それでも、そんな業さらしな真似をせずにはいられないのも人のサガであって、どれだけ嫌気が差そうと毒気にまみれようと、いったんそういう行為に加担してしまえば、もはや元には戻れずのめり込むばかりで、それらの営みと共に生死を超えて往くしかないのです。
今週のおとめ座は、普段自分のしでかしていることの恐ろしさとむごさを抱えながら、それでも誰かに向けて何かしらを発信していく自分の姿を改めて直視してみるいいでしょう。
おとめ座の今週のキーワード
本当のことを喋りたい、読んでもらいたいという気持ちをごまかさない