おとめ座
たゆたゆたゆたゆたゆたゆたゆたゆ
いのち滋養の儀
今週のおとめ座は、儀式のはじまりに唱える意味不明の呪文のごとし。あるいは、何より自分自身を寛がせる方法としての「儀式」を執り行っていこうとするような星回り。
宗教学者の上田紀行によれば、悪魔祓いの儀式が今でも残っているスリランカにおいても悪魔は「孤独な人に憑く」のだそうです。具体的には、生気を失い、魂の抜かれた姿でさまよい続ける人を見ると、あちらでは「悪魔が憑いた」と見なし、すぐに村人総出で「悪魔祓い」の儀式を行い、治してしまうのだとか。
一方で、上田は帰国後に日本人を見て、「何かが憑いている」と感じたのだとも述べています。人ごみの中で感じる、生気のなさやピリピリ感、何とも言えない息苦しさや抑圧された感じ。その謎を解くヒントを上田はスリランカでみつけたと感じたのだと。
その成果をまとめた『スリランカの悪魔祓い』では、孤独に陥りがちな現代日本人に、社会や人とのつながりや、何よりある種の儀式の重要性を問いかけています。上田がこの本を出したのは90年代初頭でしたが、例えば次の箇所などは今読んでも示唆に富んでいるように思います。
なぜ宗教的な儀式のはじまりには意味不明の呪文が置かれているのだろう。悪魔への供えものの段も意味不明の呪文からはじまっていた。そしてなぜ、古より人々は聖なる場所に入っていく前に呪文を唱えたのだろう。それは呪文によって左脳の分析的な流れを止めることで、感覚的な右脳の働きを活性化させるためではなかったか。そして呪文によって活性化された右脳は、ふだんは見えない悪魔を呼び寄せ、ふだんは感じられない聖域に漂う何ものかをキャッチするアンテナとなるのだ
上田は他のものとの差を見つけ出して分析する左脳に対して、右脳は同一性に基づいたアイデンティティを導きだすのだと述べた上で、右脳の働きの先にあるのは「大いなる同一性」としての「いのち」の感覚であり、「同一性に焦点が合わされたとき、そこには<つながりあったいのち>というもうひとつの世界が開けてくる」のだとも述べています。
8月4日におとめ座から数えて「どこでもない場所」を意味する12番目のしし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした「いのち」の感覚を滋養してみるといいでしょう。
河原に響きわたった「淫声」
近世のはじめに当たる18世紀後半、北野神社に勢いを張る阿国のかぶき踊りに対抗して、京都の四条河原でも「女かぶき踊り」の喧噪が起こった様子が、円山応挙によって描かれています。すなわち、あでやかな小袖の重ね着や長大な銀キセル、風にのる伽羅の薫りなどをまとって、遊女や女芸人などの女性芸能者たちが、琵琶法師の打ち鳴らす三味線のリズムにのって、歌や踊りを披露していたのです。
当然、そのまわりには誘い合わせて多くの人びとや商人たちが集まり、芝居見物に会食、買い物、あいびき、喧嘩、夕涼みなど、思い思いの過ごし方でその場を楽しんでいったのでしょう。そこにはくるしい日常で削られ消耗した生命を取り戻すための、最後の手段としての「淫」の声があり、集まった人びとはそれに身をまかせ、相応じて、生のことや死のことや、水のことや火のことについて想いを巡らせることができた。
「河原」とは、もともとそういう場所だったのであり、文化というのはいつの時代も、そうしたちょっと胡散臭いけれど、たまらなくエロティックで猥雑な「境界線」の場所から生まれていったのです。今週のおとめ座もまた、そうした場所にこそ身を置いていきたいところです。
おとめ座の今週のキーワード
いのち通う交流