おとめ座
余生の始め方
目に見えない「何」か
今週のおとめ座は、『何触れて薔薇散りけん卓の上』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、死角から胸中をかき乱されていくような星回り。
しばしのあいだ、卓上に飾ってあった薔薇の花。それがふと見ると、テーブルの上に花びらが散ってしまっていた、というのです。屋内の薔薇が、鳥や風など、何か外部の力によって花びらを落とすということは考えられませんから、掲句では「何触れて」の「何」というところに力点が置かれていることが分かります。
この「何」は、神や運命のような目に見えない神秘的な存在の降臨かも知れませんし、家族的なカルマや個人的な罪過のようなふだんは意識にのぼることのない潜在的な因縁の浮上という線だってあるでしょう。
おそらく、それは読者が薔薇の優雅でこの世ならぬたたずまいに意識を持っていかれるか、近づきすぎたり無下に扱うことを許さない鋭い棘に目を向けるかで、だまし絵のように変わってくるはず。
家の中というのは、国家権力や世間のまなざしが及ばない、私的な秘密が温存される最後の砦であり、占星術的には家はあなたの晩年の運命を暗示するものでもありますが、今のあなたなら、卓上の薔薇にいったい何を感じていたでしょうか。
5月23日におとめ座から数えて「心的基盤」を意味する4番目のいて座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、これまで胸に秘めてきたものが不意にうごめき出していくかも知れません。
RADWIMPSの「おしゃかしゃま」
馬鹿は死なないと治らない/なら考えたって仕方ない
さぁ来世のおいらに期待大/でも待って じゃあ現世はどうすんだい
ならば どうすればいい?/どこに向かえばいい
いてもいなくなってもいけないならば どこに
この曲では、「神様」「来世」「天国」「地獄」などの言葉がこれでもかと使われつつも、それらを作ったのは人間の方であり、そうした人間はきわめて欺瞞的な存在であり、「馬鹿は死なないと治らない」と結論づけられています。
しかし同時に、「僕」は自分が「いてもいなくなってもいけない」とも感じており、たとえ「馬鹿」であるとしても実際に「死」が訪れるまでは「現世」を生きなければならないのだと絶望しているのです。
しかし、そんな絶望は真の意味で考えるということのスタート地点でもあります。絶望してない人にとっては、どう生きるかということは「神様」が啓示すべき事柄なのかも知れませんが、神様にも絶望している「僕」が発した「ならば どうすればいい?」という問いに誰かが答えてくれることはありえず、言わばその問いに、「僕」は生まれて初めて真剣に苛まれ始めているのだとも言えます。
同様に、今週のおとめ座もまた、真の意味で残された生をいかに過ごすかということを考えるきっかけを得ていくことができるかも知れません。
おとめ座の今週のキーワード
絶望から始めよう