おとめ座
私以前のものから一個の私へ
全力でヒロインぶる「わたし」ぞ
今週のおとめ座は、『詩に痩せて二月渚をゆくはわたし』(三橋鷹女)という句のごとし。あるいは、一周まわって物語のヒロインとして自己劇化していく遊びに興じていくような星回り。
音読してみると「ゆくはわたし」という字余りの結びが妙に頭に残る一句。作者は高校を卒業後、上京して兄の家に寄宿し、兄の師事していた与謝野晶子や若山牧水に私淑して、作歌に励んだのだという。
掲句には「房州白浜」と前書きがあり、おそらくは牧水が千葉の房総南部の海岸沿いをさすらっていた時に詠んだ「白鳥や/かなしからずや/空の青/海のあをにも/染まずただよふ」という一首を踏まえて詠まれたものだろう。
黒髪を海風になびかせて、渚の砂に一つ一つ足跡をのこしてゆく自身の姿を、「わたし」と言挙げしてみせるあざとさを、一般的には感傷的なヒロイズムとも鼻もちならない自己陶酔と取る向きがあるが、ここはあえて「ごっこ遊び」のみずみずしい臨場感を無心で楽しんでいるものとして取りたい。
俳句ながら、物語性の濃い、「わたし」が強調された短歌的な句調は、間違いなく師から学んだものに違いない。2月3日におとめ座から数えて「遊び」を意味する3番目のさそり座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした鷹女の確信犯ぶりを見習ってみるべし。
前提条件としての不条理と痛苦
「現世のなにものも、われわれから「私」と口に出していう力を取り上げることはできない」と、シモーヌ・ヴェイユは『重力と恩寵』のなかで書いていましたが、実際にはしばしば私たちは「私」と口に出すことを忘れてしまったり、気付かぬうちに奪われてしまったりするものです。
そうして、時代や出来事が自分から大事な一部を奪い去っていくという不条理を経験した上で、掲句に詠まれたような意図や偶然が幾重にも重なった末に、私たちは自身が体験していた痛苦を思い出したかのようにやっとのことで「わたし」とつぶやくのです。
いわば、不条理と痛苦は、「私」という呪文を唱えるためには欠かすことのできない前提条件であり、そうであればこそ、自身の抱える不条理と痛苦をどこかへ吹き飛ばす必要に迫られていく。そうちょうど、記憶の中の牧水が歩いていた「渚」を通して「わたし」を取り戻していった掲句の作者のように。
その意味で今週のおとめ座は、そんな私以前のものが、私になっていくための一芝居を打っていくような、という風にも形容できるかも知れません。
おとめ座の今週のキーワード
自己劇化していく遊び