おとめ座
身体と速度
街の定数
今週のおとめ座は、「市に隠れる」という言葉のごとし。あるいは、「勝つ」ことや「目立つ」ことより、「やりすごす」ことの方を優先していこうとするような星回り。
中国には、ほんとうの隠者は都市のなかに隠れるという成句がありますが、デカルトもまた『方法序説』のなかで“群衆のなかこそ隠れ家”ということを言っています。彼は人生の長い期間を遍歴と放浪にあててるのですが、彼が生きた頃のアムステルダムなどの近代的な都市というのは、無名性を許容する懐の深さのようなところがあって、もとの群れから飛び出してきた人間が潜り込める余地があったのだと思います。
精神科医の中井久夫もまた、都市にはそれぞれの定数があるのだと述べていました。例えば東京のラッシュアワーのごった返したような人の流れに比べると、同じ時間帯の神戸であれば、みな次の電車を待ったりして、人と人との間隔が広くなる。そして、この定数によって行動形態が変化していく、つまり群れのなかで自分が変身していくのだ、と。
こういう定数の違いは国単位なのか、都市単位なのか。都市単位でしょうね。人間がつくった都市というのは、エルサレムでも何でもそうですけれども、千年単位でもちます。しかし、国というのはそんなにもちませんね。日本も、応仁の乱あたりでいっぺん切れたと考えてもいいぐらいだと、司馬遼太郎さんは言っておられるけれども、都市というのはしぶとい。(『精神科医がものを書くとき』)
群れというものを一つの風景や背景ととらえれば、ふだん特別意識していなくても、そうした自分が溶け込んでいる風景や背景が織りなすパターンやリズムなどは、こうした歴史的に醸成されてきた都市の定数によってある程度決まってくるものなのかも知れません。
もちろん、東京ひとつとっても、山手線も1駅ごとに街の雰囲気は変わっていきますから、定数といってももっと細やかな単位で考えなければいけません。
その意味で、15日におとめ座から数えて「実感」を意味する2番目のてんびん座の新月から始まる今週のあなたもまた、あらためて自分の身体にとって馴染みやすい都市の定数がどんなものなのか考えてみるといいでしょう。
歩く速度を落とす
昔の人はとにかくよく歩いたと言いますが、近代化とともに交通インフラが発達していくにつれ、私たち人間は自分の足で直接歩くことをしなくなってきました。
おそらく、飛行機や自動車などの高速移動に慣れ、走ったり歩いたりする以上の速度で物事を感じたり考えたりするのが当たり前になってしまった現代人には、先のような「都市の定数」を感知するのは非常に難しくなってしまっているのではないでしょうか。
その意味で、今週のおとめ座はまず、徒歩には徒歩なりの感受性のスピード感があるのだということを、どうか思い出してみて下さい。そして普段よりもゆっくりと思考の流れや連続性に身を委ねてみるにつれ、コスパやタイパなど、都市的な価値観からこぼれ落ちているものが実感されてくるはずです。
おとめ座の今週のキーワード
自分が住んでいる街の定数に意識的になること