おとめ座
魂つくりとしてのふれあい
「ふれる」はどのような地点において可能となるか
今週のおとめ座は、「手の物語」をめぐる手探り状態のごとし。あるいは、「手を通して見出される私がある」という感覚を研ぎ澄ませていこうとするような星回り。
進化史上、手はその機能的発達が脳の発達に伴わなければ、ヒトがヒトになりえなかったほど重要な役割を果たしてきましたが、ChatGPTの登場によって、いま私たちは歴史的に「労働する手」「制作する手」として語られてきた「手」について、どのように豊かに、そして固有に語り直すことができるかという問題に直面しつつあります。
ここで思いだされるのが精神医学者の中井久夫による、心理学者ソーレルの手相研究書である『人間の手の物語』への書評です。そこで中井は、17世紀に急速に衰退していった「秘教的、ネオプラトニズム的、マニエリスム的総合」の一つとしての手相を、近代市民生活の労働の倫理の行き詰まりの中で復活してきたものとして位置づけつつ、次のように自問自答してみせました。
では、なぜ精神医学は手相にほとんど関心を示さないのだろう。思うに精神科医は、あまりに多くのことがたちどころにわかるものには幾分懐疑的なのである。(『私の「本の世界」』)
ソーレルの著書で語られていたのは、いわば「労働する手」「制作する手」の対極にある、生活史や性格や健康や運命の反映としての、つまり「鏡としての手」であり、中井はそれを読み解く予見術としての手相に対し、先のように語る一方で「たとえばロールシャッハ・テストの代用となるだろうか。かもしれない。手には労働や感情の個人史が深く刻印されているだろう」とも述べてもいます。
おそらく、いま私たちに求められている手の語り方というのも、従来の「現実原則にもとづく問題解決」としての手の側面と、中井が扱ってみせたような「鏡としての手」の側面を統合するなかでやっと紡ぎ出すことできるような類のものなのではないでしょうか。
9月23日におとめ座から数えて「身体性の深まり」を意味する2番目のてんびん座への太陽入り(秋分)を迎えていく今週のあなたもまた、今だからこそ可能な自分なりの新たなる手の物語を紡ぎ出してみるべし。
手と手
古代ヘブライ人は「ヤード(YD)」という言葉に「力、傍ら、記念」などの意味を持たせて使用しましたが、この「ヤード」という名詞をもとに「手でする」を原意とする動詞やさらにその派生語が作り出されました。例えば、聖書の詩篇に次のような句があります。
暮らしを支えるために朝早くから夜遅くまで身を粉にして働いたとしても、それが何になるのか。主は愛する者に必要な休息をお与えになるのだから。(詩篇127・2)
原文を参照すると「愛する者」はヘブライ語で「友、親友」を意味する「ヤディド(YDYD)」という言葉で、語形から見ると「手と手」とも読むことができますが、これは「親交をもつ、仲良くする」の意味をもつ「ヤデド(YDD)」という動詞からの派生語なのだそうです。
つまり、真実の友とは言葉から生まれるものではなく、両手の手(行い)によって初めて成立する。黙したまま手と手がふれあい、そこでじかに相手を知ることが、真の理解に繋がっていく。少なくとも古代ヘブライ人はそのように捉え、神への賛美の詩を綴った訳ですが、これは現代人がいつの間にか見失ってしまった感覚でもあるのではないでしょうか。
今週のおとめ座もまた、大事なことほど頭ではなく手によって、ふれあうことによって知るという最初の“一手”に立ち返ってみるといいでしょう。
おとめ座の今週のキーワード
(一方的に)さわること≠(双方向的に)ふれること