おとめ座
そうでなかった自分に成る
不可能なるものを見るために
今週のおとめ座は、「学をなせば日に日に増す。道をなせば日に損す」という老子の言葉のごとし。あるいは、意味だとか知識だとかにがんじがらめになっている状態から、一歩も二歩も踏み出していこうとするような星回り。
老子の48章に出てくるこの一節では、学ぶということに関する2つの道行きが示されています。すなわち、日々知識を増やしていく道と、知識を減らす道ですね。
前者は本を読んだり、誰かの話を聞けば、ある意味で誰にもできることですし、明確な結果が得られるという点で、心身の調子が落ちている時などはとても効果的な道行きとなるように思います。
問題は、後者です。これは学問の知や学んで得られる知識に頼らずに、それらがまだ分かりやすい言葉に落とし込まれる以前の、曖昧でよく見えないかたちであるものを、自分で直接経験していく道です。
老子はそのあたりのことについて「無為にして為さないことはない」という言い方もしているのですが、これは日々損をする引き算をしていくことで、言葉だけで物事が理解できると見なしていた自分を否定して、不可能なるものを見ることができれば、それは「全てを為す」ことに通じるのだと言っている訳です。
26日におとめ座から数えて「学習活動」を意味する3番目のさそり座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ただいたずらに知識や知っていることを増やそうとするのではなく、むしろそういう自分が否定されるところまで徒手空拳で暗中を模索していくべし。
乱走している切断の善用
高度に情報化された現代社会では、“賢く有能な”人ほど情報の取捨選択にコストをかけ、どこかの時点で意図的に情報収集をやめて行動に移ろうとしていくが、端的にいってそういう意味の過剰さや「意識の高さ」にくたびれてしまった人も多いのではないでしょうか。
そうした主体の理知のもとでの行動の中絶を、哲学者の千葉雅也は『勉強の哲学―来たるべきバカのために』の中で、「意味的切断」と呼んでいるが、他方で「非意味的切断」ということについて次のように述べています。
すぐれて非意味的切断と呼ばれるべきは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害といった「有限性finitude」のために、あちこちに乱走している切断である。
そして興味深いことに、千葉やこのタイプの切断の重要性を指摘した上で、それを「そうでなかった自分に成る」ためのテクニックとして肯定的に活用しようと畳みかけます。
私たちは、偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として「善用」するしかない。
今週のおとめ座もまた、「自分が求めていたものを得る」のではなく、むしろ見知らぬ自分になっていくための行為として勉強に励んでいくべし。
おとめ座の今週のキーワード
自己否定の術としての「非意味的切断」