おとめ座
都市での湯治
未知のものの感触
今週のおとめ座は、『群衆に沐浴(ゆあみ)する』という表現のごとし。あるいは、特定の役割と分かちがたく結びついてしまった自分を解除していこうとするような星回り。
例えばパリに生まれた詩人ボードレールは、匿名の人間として群衆のなかをひとり、ぶらぶら歩きする愉しみを「群衆に沐浴(ゆあみ)する」と表現しました。そうした群衆のなかにあって、自分という囲いを外し、通りかかる未知のものにみずからをそっくり与えてしまう快楽を、次のように述べてみせたのです。
群衆とたやすく結婚する者は、金庫のように閉ざされたエゴイストや、軟体動物のように殻に閉じこもった怠け者などには永久に与えられることのないような、熱烈な享楽を知るのである。彼は、めぐり合せが提示してくれる職業のすべて、歓びのすべて、悲惨のすべてを、自らのものとして受け入れる
確かに、あまり意味のあることばかりしていると、移ろいやすいもの、傷つきやすいもの、滅びやすいものが眼に入らなくなるという意味で、これしかできないという殻に閉じこもってしまうのは怠慢の極みなのかも知れません。
その意味で、23日におとめ座から数えて「自己開示」を意味する5番目のやぎ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、たまには街を無目的にぶらぶら歩いて、その道すがら、未知のものの感触に自分を委ねてみるといいでしょう。
<慎み深い露出>としての顔
かつては「四十になったら、自分の顔に責任を持て」ということがよく言われてたものですが、これはそれだけ顔というものが、そのときの生活や生き様を正直に映し出す‟厳しい鏡”のようなものと見なされてきたということでもあります。
例えば、哲学者のレヴィナスは「顔はおよそ正直なものだが無防備であり、慎み深い露出を行っている、本質的に<貧しい>ものである」(『倫理と無限』)と述べていますが、ここで言われている貧しさとは、<傷つきやすさ>と言い換えてもいいでしょう。
ただし、私たちはふだんそうした素顔を、〇〇社のマネージャーだとか△△君のママなど他者から意味付けられる肩書きや役割を使って覆い隠しており、あまりにそれら場面ごとに使い分けられる仮面と素顔とを癒着させてしまっているようにも感じます。
その意味で、今週のおとめ座においては、そうした癒着から脱したところで<見られる>ことを意識せず、みずからの貧しさや傷つきやすさをそれとなく露出させていくことがテーマになっていくのだと言えるでしょう。
おとめ座の今週のキーワード
癒着の解消