おとめ座
おしくらまんじゅう
ぎゅうぎゅうな感じ
今週のおとめ座は、「推し活」というより「圧し活」という言葉のごとし。あるいは、すすんでぎゅうぎゅうな暮らしに突き進んでいこうとするような星回り。
「推し」とは「人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物」のことで、もともとはAKB48の台頭によって広まったことから主にアイドルや俳優のことを指します。そして2010年代末から2020年代初頭にかけて『大辞林』などの国語辞典に収録されていき、2021年には「推し活」という語句が新語・流行語大賞にもノミネートされました。
しかし、この「推し」という言葉は実際に使ってみると、なんというかとても力のいる言葉です。普段は体の奥底に眠っている力をふりしぼって、好きな人をより上のステージへと押し上げていく感じ。そこには手応えのようなものもあって、ネットでの書き込みであれアルバムやチケットの購入であれ、より直接的な声援であれ、「推し」が活躍の度合いを増せば、「念が通じた」と感じる訳です。
ただしその反動もあって、新曲の売上やPV数やランキングなどの数字が思うように伸びなかったり、人気が下がってきたり、不祥事が起こると、一転して「念が足りなかった」となり、そういう一種の思い込みが強まるほどに、推しという存在に生活が圧迫されて、相手を押すどころか、むしろ寝ても覚めても相手から圧されているようになってくる。これではもはや「推し活」ならぬ「圧し活」である。
でもそれでもいい。というより、それがいい。小さい頃に冬になると教室の隅や校庭でやった「おしくらまんじゅう」のようなぎゅうぎゅうな感じが、ただ慌ただしく目の前の日常に追われて過ぎていくだけの生活の空虚さを埋めてくれる気がするから。
24日におとめ座から数えて「心のよりどころ」を意味する4番目のいて座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、相手に圧されるほどのコミットをカマしていきたいところです。
隣人とは誰か
聖書の有名な隣人愛の教えは、当時のユダヤ教社会に横行していた人種差別が前提にありましたが、例えば、『ルカ福音書』の「よきサマリア人のたとえ話」には次のような一節があります。
ある律法家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」といった。
最後の「隣人とは誰か」という戦略的な問いかけは、イエスが実際に被差別民と付き合っていた事実を暴き出すためのものでしたが、それに対してイエスはこの後、追いはぎにあった人を見かけた3人の例を出して「誰が隣人になったと思うか」と問い返しました。
それは、隣人とは「~である」という仕方で固定的に定められるものではなく、各人が「なる」という仕方で実現するべき実践であることを明らかにしているように思います。
同様に今週のおとめ座もまた、みずから接近せずにはいられない関係において癒し/癒されていくことがテーマになっていくでしょう。
おとめ座の今週のキーワード
「接近」という身体的行為を担う者としての「隣人」