おとめ座
周辺空間を変貌させてゆく
花文字のように
今週のおとめ座は、セルトーの「歩行のフィギュール」のごとし。あるいは、みずからにいのちあるものとしての“ピチピチ感”をもたしていこうとするような星回り。
押しつけられた秩序を相手どって、一見それに従いながらも完全にはそれにハマらず、手持ちの材料やその場の即興で「なんとかやっていく」方法について分析してみせた『日常的実践のポエティーク』の中で、ミシェル・ド・セルトーはその具体的実践として例えば「歩行」を取り上げています。
そこで本来は「言い回し」や「言葉のあや」に近い、古典修辞学における「文彩」を意味する「フィギュール」という言葉を「歩行」に結びつけ、「空間を文体的に変貌させてゆく身ぶり」と位置づけ、リルケの言葉を借りて「動く身ぶりの樹々」と言い表します。
「こうした身ぶりの樹々は、そこかしこでざわめいている。その樹々の森は街を通って歩いてゆく。それらは次々と情景をかえてゆき、ひとつの場のイメージに固定されない。それでもあえてなにかの絵にあらわしてみようとすれば、それは(中略)黄緑色とメタリックブルーの花文字の数々、大声をたてずに低いうなり声をあげながら都市の地下に縞模様を描いてゆくあの花文字のイメージであろう。」
それは都市計画で指示された首尾一貫した固有の意味を、あらぬ方向に吹き飛ばし、「ねじ曲げ、粉々にし」つつ、「それでも不動を保とうとする都市の秩序から何かをかすめとってゆく」のです。
21日深夜におとめ座から数えて「不足の充填」を意味する11番目のかに座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、いまの自分に足りない予測不可能な動きをごく日常的な場面にこそ取り入れてみるといいでしょう。
「敬」の状態
12世紀南宋に生まれ「新儒教」の朱子学の創始者となった朱子が弟子の問いに答えて述べた『朱子文集』には、「心がいつも敬の状態にあるならば、肢体はおのずと引き締まり、なにも意識しないでも、肢体はひとりでにのびのびします」とあります。
この「敬」とは普通の意味での「尊敬」のことではなく、ある種の心の覚醒状態のことを指しますが、これを読むと彼が大事にした「敬」の思想とは「こだわりのない平常心」のことでもあるということが分かってきます。
「心の全体があまねく流動して、行き届かないものはなにもない」状態とも述べており、これはフィジカル&メンタルな意味での健康に限らず、ソーシャルないしスピリチュアルな健康という概念まで含んだものであるとも言えるでしょう。
今週のおとめ座は、そうした色んな観点から自身に足りない健康要素とは何なのかを把握し、みずからを「敬」の状態に置いていくべし。
今週のキーワード
動く身ぶりの樹々として