おとめ座
呼吸より大事なことってあるんでしょうか
脱・過呼吸
今週のおとめ座は、「血を濃くして血を濃くして白息吐きぬ」(中山奈々)という句のごとし。あるいは、心身を純化していくため、呼吸を深く大きくしていくような星回り。
空気が冷たいので吐く息が白く見えることを表した冬の季語に「息白し(いきしろし)」という言葉がありますが、掲句のようにそれを「白息」と名詞にされてしまうと、人間もなんだか繭を作るべく細い糸をつむぐ巨大な蚕(かいこ)のように感じられてきます。
あたかも赤い血をもっと濃くすれば、吐く息も絹糸のような透き通るような白へと変わっていくかのように。そして、上質な糸を吐き切ったときに蚕がその役目を終えるように、私たちもまた身の内に流れる血の熱さや濃さを何か別のものに昇華しきって初めて、天寿を全うしていくのでしょうか。
蚕の幼虫は糸を吐き出す前に、必ず桑の葉を食べなくなって身体が透き通るように変化していくそうですが、それに比べて私たち人間は、日ごろあまりに濁りやノイズを飲み込み過ぎて、過剰適応気味になっているように思います。
その意味で、6日におとめ座から数えて「最初の吐息」を意味する2番目のてんびん座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、大きな声で誰か何かを制圧しようとするのではなく、丁寧に丁寧に息を吐いていくことを通してまず自分自身を整えていきたいところです。
在ることへの集中としての呼吸
プラトンによれば、彼の師ソクラテスは「自分は知恵に対して実際は何の値打ちもないものなのだということを知った者」(『ソクラテスの弁明』)と自称していたそうですが、これは「吟味されない人生に、生きる価値はない」という別のところでの言葉をまさに自分自身に当てはめた結果でしょう。
そもそも「生きる」という言葉自体、ふだん無自覚に使われがちですが、よく考えてみると、生きると死ぬは対にはなっていないんです。だいいち、無としての死を私たちはぜんぜん知らない。なぜなら、存在しないから。無が存在したら、無ではないからですね。
つまり「生きている」と私たちがふだん何気なく言っているこの生存とは、じつは在ること、存在することの部分集合に過ぎないんです。これは逆に言えば、在ることというのは、必ずしも生存していることをだけを言うのではなくて、あくまで無数にある可能性の一つとして「生きる」とか「生きている」ということがあるけれど、それはどこまでいってもやはり「在る」でしかないんですね。じゃあ、存在しているのは一体何なのかということになる。これが端的に存在の謎と言われるものです。
長々と書いてしまいましたが、これは本当に気が付くと、「何だこれは」とか、「あっ」と驚くしかないんですよね。「血を濃くして白息を吐く」というのも、ひょっとしたら、そんなことなのかもしれません。
今週のキーワード
エウレーカ!