おとめ座
予感と開かれ
芝不器男の場合
今週のおとめ座は、「風鈴の空は荒星ばかりかな」(芝不器男)という句のごとし。あるいは、爛々たる無意識のうねりを肌で感じていくような星回り。
夏の風物詩である「風鈴」が一斉にかき鳴り、その大音響の向こうには無数の星星がきらめいている。「荒星」は冬の澄んだ空気の中で鋭くギラギラと輝いている星を指して使う冬の季語であり、普通は使いませんが作者はあえて使ったのでしょう。
俳句をはじめて4年、わずか27歳で病没した作者がこの句を作ったのは23歳の頃。既にこの時には自身の残り短い命運をどこかで察知していたのかも知れません。
それほどに、普通とは違う光景が作者には見えていたし、それは一見偶然のようであってもただの偶然ではなかったのではないでしょうか。というのも、作者はその静謐な作風とは裏腹に、どうやら相当に激しく熱い詩魂の持ち主だったことが伺えるから。
例えば、彼が家族と催した句会の記録には、こんな作者の言葉が残されていました。
小器用な俳人ならそのだれもが詠めば詠み得る底の句を詠んだところで彼は遂に小器用の俳人以外のものではない。(中略)そんなものに低回してゐる位なら句帖を焼却するがいい。抹殺せよ抹殺せよ芸術的興奮に因せずして芸術的興奮をもたらし得んや。腑脱句を抹殺せよ。泥土に遺棄せよ。
19日におとめ座から数えて「秘密のひらめき」を意味する12番目のしし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、ある種の予感めいたビジョンが眼前に開けてくることだってあるはず。そのためにも、心の奥底で密かに願っている願いをどうにか言語化していくことを心がけていきたいところ。
ニーチェの運命愛
ニーチェ最後の作品に「この人を見よ!」という自伝的小品があります。読者はまずページを開くと、各章のタイトルに驚くことでしょう。「なぜ私はかくも賢明なのか」「なぜ私は怜悧なのか」「なぜ私はかくも良い本を書くのか」といった見出しが続くのですから。
こうした目に余る誇張や大袈裟な言い回しを、ただ狂気の徴候としてとり合わないという扱い方も可能ですが、彼がここで言及している「私」とは、ニーチェであってニーチェではないのではない。そう考えてみると、何やら今のおとめ座にとっても大事なメッセージとなるように思うのです。
つまり外部から到来する力に、ニーチェ自身の魂が開かれて、翻弄されつつもそれら全体を一個の運命として受け入れ、愛そうとしていくこと。ニーチェ自身が「運命愛」と呼んだ営みを、自分の身をもって示そうとしたのがこの本なのではないか、と。
今週のあなたもまた、理性とカオスの両方にまたがろうとしたニーチェの「運命愛」的態度をもって、自分の人生を一冊の閉じた本としてではなく、ルーズリーフのように挿入・入れ替え可能な開かれたテキストとして扱っていくことが課題となっていくでしょう。
今週のキーワード
芸術的興奮