おとめ座
日々の中で
行としての日記
今週のおとめ座は、日記を通して孤独な自己への慰めを得ていく人間のごとし。あるいは、ひとつのことを繰り返し続けていくことの中にこそ、復活への方途を見出していくような星回り。
哲学者でもあり後に岩波書店の顧問にもなった河野与一が、第二次世界大戦直前の1935年から41年にかけて、全八巻をたったひとりで訳し世に送り出したのが『アミエルの日記』です。
アミエルは孤児から出発したスイスの思想家で、生涯独身者として思索に費やし、死後になって有名になった人物でしたが、30年以上もの間、ひたすら孤独な自己への慰めが綴られた彼の日記は、国家主義の重圧がのしかかる暗い時代の日本の若者の心を確実に掴んでいきました。
そして、そんな風に自身の死をまたいで読者を得ていったアミエルのような人物こそ、今週のおとめ座にとってよき指針となっていくはず。
例えば、彼が日記について述べている次のような箇所を引用すれば、その理由が分かるでしょう。
「この毎日の独白は、祈りの一形式、精神とその原理の談話、神との対話である。これによってわれわれは、面目をすべて取り戻し、混沌から明晰へ、動揺から平静へ、散漫から自己統一へ、偶有性から恒久性へ、特殊化から調和へと立ち返るのである」
彼にとって日記とは、いわば「意識的な睡眠」であり、それを経ねばただ曖昧に流れ去っていく昨日と今日とを分かち、経験を経験として受け止めていけるよう手助けしてくれる、なくてはならない神聖な儀式だったのでしょう。
もちろん三日坊主でも構いません。試しにそうした儀式を試みていくことで、春分を境に新たなサイクルを迎えていくのに十分な禊ぎを果たしていくことができるでしょう。
神のみこころに即す
「内面に沈黙をつくりだし、いっさいの欲望、いっさいの意見に口をつぐませ、愛をこめ、たましいのすべてをあげ、言葉にはださずに、「みこころの行われますように」と思いをつくすとき、次にこれこそどうしてもしなければならぬことだと、あやふやさの一点もなく感じられることがあったら、(もしかすると、ある点では、これも思い違いかもしれないのだが……)それこそ、神のみこころである。」(『重力と恩寵』、シモーヌ・ヴェイユ、田辺保訳)
人が神の御心そのものを知ることはできませんが、アミエルが日記を通してそうしたように、祈りによって個別的な事柄や思惑を頭の中から祓っていくことは決して不可能ではないでしょう。
少なくとも、どんな行動、あるいは態度を選択していくべきかは理性によってはっきりさせていくことができる。じっと目をこらして、観察し、自分に問いかけることを怠らなければ。
それが問うことと祈ることの交差点なのだと思います。
今週のキーワード
意識的な睡眠