
おうし座
天使的憂鬱へ
ルオー爺さんのように
今週のおうし座は、過去の自分自身へのレクイエムのごとし。あるいは、みずからの詩的な「たぶらかし」に一つの終わりを告げていこうとするような星回り。
詩人の茨木のり子の初期の代表作に『わたしが一番きれいだったとき』という詩があります。以下に、その途中から終わり部分を一部抜粋してみましょう。
わたしが一番きれいだったとき/わらしの国は戦争で負けただ
そんな馬鹿なことってあるものか/ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
(中略)
わたしが一番きれいだったとき/わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん/わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた/できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた/フランスのルオー爺さんのようにね(『茨木のり子詩集』)
彼女は1926年生まれで、敗戦時は19歳。女性として、また一人の人間として、おそらくは最も光り輝く年頃を迎えていましたが、その傍らでは男たちはしょぼくれて、何の役にも立たない反省ばかりしていた訳です。そんな町を「腕まくり」して歩いていた彼女の心意気というのは、感動的ですらありました。けれど、彼女は後になってそうでしかあれなかった自分の「ふしあわせ」に気付き、抱えていた「さびしさ」を認めて、それを別の仕方で取り返す決意をしているのです。
これはもともと1958年に出た『見えない配達夫』という詩集に収録されていたそうですから、刊行当時の著者は32歳。当時の日本社会ではすっかり落ち着いた年頃と言っても過言ではありません。晩年の彼女の詩には「詩はたぶらかしの最たるもの」という一節がありますが、『わたしが一番きれいだったとき』という詩は若者としての自分へのある種のレクイエムだったのかも知れません。
10月30日におうし座から数えて「成熟」を意味する10番目のみずがめ座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、これまで気付いていなかった自身の不幸や寂しさを認め供養をしていくことが、今後の新たなチャレンジの原動力になっていくはず。
途方に暮れる天使
ここで思い出されるのが、デューラーの版画『メランコリアⅠ』です。そこには海のそばの建築中の空間に腰をかけた有翼の天使的な女性が描かれており、その顔は濃い陰影で覆われ、衣服にはしわが寄り、お世辞にもオシャレとも優雅ともとても言えない雰囲気が醸し出されています。
さらに、彼女の傍らにはやせ細った犬が一匹、石板に何かを刻んでいる子供がひとり、そしてこの三者の周りには挽き臼、はしご、天秤、砂時計、かんな、球体、魔法陣などが雑然の散らばっており、美術史家のパノフスキーはイコノロジーの見地から、人間の知恵とテクノロジーの象徴と深く関わると見なし、有翼の天使的な女性はそれらが陥っている深いメランコリーの象徴的存在なのだと考えました。
そしてこれはおそらく、二十一世紀の人類が高度な知の道具を用いていくら認識を深めても、この地球がその把握を超えた「解決できない問題」をつぎつぎと差し出してくるという状況を描いた一種のカリカチュアとも解釈できるのではないでしょうか。とはいえ、人間に与えられた一番の謎はやはり自分自身の人生であり、とりわけ大人になる以前に経験した「たぶらかし」に他なりません。
今週のおうし座もまた、日々の仕事や人間関係に追われる人間的憂鬱というより、そうした天使的憂鬱にじっくりと立ち返ってみるといいでしょう。
今週のキーワード
解決できない問題にあえて固執していくこと







