
おうし座
自叙伝のたとえ

喧噪に耳を澄ます
今週のおうし座は、寺山修司にとっての「汽笛のあそび」のごとし。あるいは、自分がいかに歴史に近づくべきかということに意を払っていこうとするような星回り。
自叙伝である『誰が故郷を想はざる』のなかで、アルコール中毒だった父親との数少ない記憶として、寺山修司は夜2人でした「汽笛あそび」をあげています。
闇の中で遠くに汽笛の音が聞こえると、「上り、か?」と父が問い、「下り、だ」と息子が返す。すると「じゃあ、おれは上りだ」と父がいう。それから寝巻のまま、戸をあけて闇のなかにとび出してゆき、線路の前のしげみに伏せて「音が、形態にかわる」のを息をのんで待っている。やがて夜風のなかで、汽笛が凄まじい勢いで通り過ぎてゆく。そして、その続きには次のように述べられている。
それはいわば汽車というよりは重い時間の量のようなものであった。そして、愛によってではなく思わず目をつむってしまうような轟音と烈風の夜汽車によって、私と父とは「連結」されていたのだと言えるのである。
かつて哲学者のウィトゲンシュタインは、「私たちの判断、概念、反応を決めるものは、今何をしているかという個々の行為ではなく、人間のありとあらゆる行為が詰まった無秩序な喧噪全体である。すなわち、何らかの行為を目にする際の背景である」と述べました。おそらく、寺山にとっては父と2人だけで共有した「夜汽車の轟音」こそ、彼の「背景」であり、自叙伝の素描だったのでしょう。
4月18日におうし座から数えて「父親との関係」を意味する4番目のしし座へと火星が移っていく今週のあなたもまた、魂の生ける告白の世界(=歴史の世界)を比喩を通して、もの語っていくべし。
自己への裏切り
例えば仮に、あなた自身もみずからの自叙伝を書いていくとして。執筆の過程では何べんでも過去を書き直すことはできるし、未来へのビジョンや想いについても書き進めていくことができます。
ただし、そこで唯一できないのは、「これが私だ」という明確な定義を与えること。これだけは自叙伝を書き終えた後に、それを読んだ人の心の中にぼんやり残るという形でしか為し得ません。
また、そこには時に“裏切り”も生じてくる。というのも、書くことや読まれることは本質的に自己への裏切りを含んでいるから。
その意味で、先ほどの「私たちの生き様を決定づけるのは、前景ではなく背景なのだ」というウィトゲンシュタインの指摘も、そうした裏切りへの予感に他ならず、自叙伝がいい作品となるかどうかも、そうした「背景」まで筆が到達しえたか否かにかかっているのではないでしょうか。
今週のおうし座には、そうしたある種の不穏さがついて回りますが、もろとも表面化させて、あとは「読者」たる周囲の人間の反応に応じていくのも一興でしょう。
おうし座の今週のキーワード
「血がもしつめたい鉄道ならば/通りぬける汽車は/いつかは心臓を通るだろう」(寺山修司)





