
おうし座
意味と蜜をあつめて

雪解の春を
今週のおうし座は、『時ものを解決するや春を待つ』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、下手にジタバタせずに、今すべきことに集中していこうとするような星回り。
「時がものを解決する」という、それだけならありふれた物言いに、「待春」という晩冬の季語をくっつけることで言葉は詩となり、ふしぎな説得力が生まれることをよく示してくれている一句。
暦の上では「立春」になって春になってもまだまだ空気は冷たく厳しく、心躍るような新たな展開の兆しなどほとんど感じられないかもしれない。しかし、焦らずとも問題は時間が解決してくれる、すべきことは雪が解ける春を待つだけであり、水になってどこかへ流れていくその時には、すでに春なのだ。作者はそう言っているのでしょう。
具体的なことは何も言っていませんし、作者には鋭い観察力を発揮した作品も多いのですが、そんな中にこんな大らかな句がぽんと出てくると、それはそれで人が本当に癒されるのはこういう作品においてなのかも知れないという気がしてきます。
まだまだ体感的にはやって来ていないはずの春を、それでもどうにかその片鱗を見つけ出し、わが身を通して体現していけるか。2月5日に自分自身の星座であるおうし座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、そんなことをひとつ頭に置きながら過ごしてみてはいかがでしょうか。
忍耐と蜜
最初に読んだ時はピンとこなかった言葉が、その後何かの拍子に不意に思い出され、以前とは打って変わって砂にしみいる水のように、スッと心に入って実存と共鳴し合うといったことは、おそらく誰しもが1度は経験したことがあるはず。
詩人リルケは、こうしたある言葉が一定の忘却期間を経て再発見されていく事態こそ詩の本質に関わるのだとして、次のように述べています。
詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩を書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩はほんとうは経験なのだ。(『マルテの手記』)
そう、詩とは経験であり、その忘却であり、「再び思い出が帰るのを待つ大きな忍耐」によってもたらされるものなのだ、と。これは、言葉がいったん深層心理に埋もれて、その“隠れた意味”を伴って体験されるとき、人をそれをある種の“啓示”として受けとり、それが詩の種となっていくのだ、とも言い換えられます。それと同様に、今週のおうし座もまた、長い忍耐を通じて経験の結晶化としての詩行を刻んでいくことがテーマとなっていきそうです。
おうし座の今週のキーワード
詩の本質は感情ではなく、経験なのだ。





