おうし座
裏の私からの浸食
松過ぎの骨休みに
今週のおうし座は、「主婦のひま松過ぎし夜の琴鳴らす」(及川貞)という句のごとし。あるいは、途中で放棄して忘れかけていた物事に再び取り組み直していくような星回り。
松飾りを取りのぞくまでを「松の内」と言い、普通は1月7日までですが、昔は土地によって4日だったり6日だったりといろいろ違いがあって、ともかくそれからしばらくが「松過ぎ」と呼ばれてきました。
正月の喧噪や家族行事などが一通り終わったあとのほっとした気分に、一抹のさびしさが入り混じったような感じがしてしっとりと落ち着いてくるものですが、特に句に詠まれているような主婦にとってはやっと骨休みができる頃合いです。
それで、せっかく落ち着いたからという訳で、久しぶりに琴を持ち出して、もののはずみで弾いてみたら、思いのほかいい音が鳴った。ずいぶん弾いていなかったのに、昔習ってよく練習していた曲は指が覚えていたりして、自分で感心してしまったのでしょう。
自註に「幼い時に覚え固めた曲は何年たっても弾ける。隣家も近くないし憚りなく鳴らし続ける」とありますから、その後も気が済むまで琴をひきつづけたのかも知れません。
1月7日におうし座から数えて「記憶の底」を意味する12番目のおひつじ座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、ひまつぶしになんとなく始めたことが思いもよらぬ流れや展開へと繋がっていくはず。
裏の私、表の私
ここで思い出されるのがアントニオ・タブッキの短編『逆さまゲーム』の結末。簡潔にあらすじを述べると、語り手である「私」は、ある夜とつぜん、かつてより恋人同然の付き合いをしてきたマリア・ド・カルモという女性の死を告げる国際電話を受けとり、リスボンにいるマリアの夫を名乗る老紳士に、こちらに来て葬儀に参列してほしいと頼まれる。
ところが、「私」を広大な屋敷に迎えた老紳士は、電話とは裏腹に冷淡な対応に終始し、今日葬られようとしている自分の妻は、高貴な家柄の女で、どこの馬の骨とも知れない若輩者と付き合う人間ではないし、お前は夢でも見ていたのだと意地悪くいって、「私」をひどく混乱させます。
しかしその後、暮れなずむリスボンの街を眺めながら、選択の余地などないまま老紳士の妻となっていった元恋人の人生についてノスタルジックに追憶していった末に、小説は「今日こそ、マリア・ド・カルモは自分自身の<裏がわ>に到着したのだ」という「私」の納得で終わるのです。
ここではマリアのモデルが誰であったかということは脇におくとして、作者のタブッキは明らかに、この<裏がわ>の世界と自身の作り出した<文学>ないし<虚構>の世界とを結びつけていることがうかがえます。
つまり、最後の「私」の述懐は、彼女がその時点でやっと虚構の世界の市民権を得たことを宣言したものであり、タブッキは自身の文学創造を通じて、どうしても素材として用いてしまうみずからの来歴や伝記的データに閉じ込められ、その中で身動きできなくなる危険を回避しようとしたのではないでしょうか。
今週のおうし座もまた、現実とは異なる<虚構>の世界の侵食を受けることで、自分自身を新たに編み直していこうとしているのかも知れません。
おうし座の今週のキーワード
虚に居て実をおこなふべし