おうし座
仏様の手のひらの上でころがる
虚実の重み
今週のおうし座は、『別れ路や虚実かたみに冬帽子』(石塚友二)という句のごとし。あるいは、どうせなら桃色の嘘のひとつでもついていこうとするような星回り。
知り合いか友人と帰り道で別れるときの句。「虚実かたみに」とは、本当のことや嘘のことを交えて何かを言うというくらいの意味ですが、おそらくお互いに心にもないことを言い合っているのでしょう。
「今年はこれで最後だろうね」「いや、案外これで今生の別れかもしれない」「会いたいなと思った頃にはってやつね」「むしろ、もう会わずにすむと思うとせいせいするくらいだわ」「思い残すことはもうないさ」「嘘ばっかり」「どこから?」「ぜんぶよ」
人間歳をとればとるほど複雑な思いを抱く相手に対するときほど軽口や憎まれ口のひとつでも叩きたくなるものですが、下五にくる「冬帽子」は夏帽子と違ってなんとなく重苦しい印象を受けます。
したがって、ここで交わされている会話もまた表面的な軽さや突拍子もなさとは裏腹に、長い関係性の歴史や深い心理的な陰翳を孕んでいるのかも知れません。そして、嘘は人間なしには存在しえないがゆえに、往々にして本当のことよりも嘘の方が人間的真実を反映しているものではないでしょうか。
12月9日におうし座から数えて「交友関係」を意味する11番目のうお座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ここぞというタイミングで「虚実かたみに」言葉を交わしていきたいところです。
実存協同の鎖の中で
哲学者の田辺元が最晩年に遺したエッセイ『メメント・モリ』の中に、次のような1節があります。
自己は死んでも、互に愛によって結ばれた実存は、他において回施(えせ)のためにはたらくそのはたらきにより、自己の生死を超ゆる実存協同において復活し、永遠に参ずることが、外ならぬその回施を受けた実存によって信証せられるのである。(…)個々の実存は死にながら復活して、永遠の絶対無即愛に摂取せられると同時に、その媒介となって自らそれに参加協同する。
ここで田辺は死者との「実存協同」ということを説いていますが、これは禅籍の『碧巌録(へきがんろく)』に出る師弟の話に基づいています。いわく修行僧の漸源(ぜんげん)は、生死の問題に迷い、師の道吾(どうご)に問うたが、「生ともいわじ、死ともいわじ」という答えを得て、理解できませんでした。しかし師の没後、兄弟子の石霜(せきそう)の指導で悟り、その時、漸源は師がみずからのうちに生きてはたらいていることを自覚し、懺悔感謝したのだといいます。
しかしこのことは、禅の修行者に限らず、私たちの日常で普通に起こっていることなのではないでしょうか。田辺の場合は妻をうしない、死んだ妻が自分のうちに生きていると実感したことが大きかったようです。
大乗仏教における「菩薩」は、道吾のように、死後もなお生者のこころに復活して、弟子の漸源にそうしたように、衆生済度(しゅじょうさいど)の愛に生き続ける、すなわち、みずから菩薩として次に来る人を導くとされますが、「実存協同」の鎖というのは、そうしてはじめて「自己の生死を超」えていくことができるのかも知れません。
今週のおうし座もまた、みずからがどんな「実存協同」の鎖のなかにいるのかという視点から、改めてそのまなざしを開いていきたいところです。
おうし座の今週のキーワード
愛に依って結ばれた交互媒介事態としての(生の実感の)“復活”