おうし座
意識の非志向的次元で
言葉でごまかさない
今週のおうし座は、箱庭をつくったりつくらせたりするがごとし。あるいは、誰か何かに対して「解釈」するのでなく、ただ素直に「鑑賞」していこうとするような星回り。
近年、短い解説動画などが無数に出回るようになった影響からか、映画であれアニメであれ、普通に見るだけでは気づかないような伏線を回収したり、裏側事情を踏まえた答え合わせをしたりなど、必ず「考察」をはさんだ見方をするのが当り前といった風潮が色濃くなってきているように感じます。
しかし、そういう見方というのはどこか邪道と言いますか、それ自体が悪いわけではないですが、直接的な体験として深まっていかないんです。そのあたりのことについて、例えば河合隼雄と小川洋子は『生きるとは、物語をつくること』という対談本の中で、次のように語っています。
小川 箱庭には感動的な箱庭とつまらない箱庭というのがあるんですか。
河合 ありますね。普通の人が面白半分につくった箱庭が、一番つまらない。言い方を変えると、ごまかせるのが普通の人なんです。大きい問題を持ってる人はごまかしようがないんです。昨日観た映画のシーンを作っても、その人のもっているものが完璧に出てしまう。だから箱庭を始めた時にセラピストに言ったのは、「解釈をしないで鑑賞してください」。
小川 セラピストが、解釈をしない。
河合 ある時ある箱庭のスライドを見せられたんですが、いくら観てもモノの言いようがなかったんです。そうしたらそれは、その人の友達が面白半分に作ったものやっていうんです。
小川 そんなに如実に表れてしまうんですか。それだけ言葉っていう道具の方が不自由なものだということでしょうか。
河合 もう恐ろしいぐらい出ます。言葉の方が一般的にはごまかし可能ですよ。
10月11日におうし座から数えて「神殿」を意味する9番目のやぎ座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、下手に言葉を繰り出してごまかさないよう心がけてみるといいでしょう。
「非思量」ということ
禅の世界には「非思量」という用語があって、これは例えば中国・唐代の禅師・薬山惟儼(やくさんいげん)による次のような問答において記録されています。
ある時、薬山が深い瞑想状態で坐っていると、ひとりの僧がやってきて彼に尋ねた、「岩のようにじっと坐っていて、あなたは何を考えているのですか?」
師は答えた、「絶対的に思考できないものを考えている。」
僧「絶対的に思考できないものをどうして思考できるというのですか?」
師「非思考的思考、非思量によってだ!」
通常、人の意識というのはXであれ〇〇であれ、何かしらの対象を志向する在り方をしているものですが、先の問答にもあるように座禅の実践の第一の目的というのは意識の非志向的次元を探求することであり、その次元では人は「モテること」であれ「得すること」であれ何かを「志向すること」のない純粋な活動体となりえる訳です。
とはいえ、言葉の観点だけでこうした問答を解釈しようとすれば混乱は深まるばかりでしょうが、もし僧と師のあいだに砂の入った箱があって、会話のあいだも(2人ないし片方が)なんとなく砂をいじっていたのだとしたら、見え方も変わってくるはず。
今週のおうし座もまた、どこかでこうした「頭が消えていく感覚」への接近を試みてみるといいかも知れません。
おうし座の今週のキーワード
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