おうし座
破戒と念仏
末法を見る眼
今週のおうし座は、『末法燈明記』の教えのごとし。あるいは、時代と人間の悪を透徹したまなざしで見て取っていこうとするような星回り。
最澄の著と記されているものの、現在では偽作と考えられている『末法燈明記』という平安時代末期の書物があり、その内容は簡潔に言えば次のようなものでした。
釈迦が死んで500年間を“正法”といい、その間は釈迦の教えが人びとのあいだで保たれるが、その次の1000年、“像法”の時代には教えや成果だけが残り、さらにそれ以後の“末法”の時代になると、教えだけはあるものの、それを行う人もその成果もなくなって、仏教も堕落し、僧侶も形だけのものとなり、人びとの心は俗人以上に俗人となってしまうのだと。
こうした時代区分の設定に続いて『末法燈明記』では積極的に破戒僧の弁護が行われるのですが、その言葉は当然“末法”にあたる現代の私たちが読んでも響くものがあるように思います。すなわち、守るべき戒めのない時代にあっては、戒を破るということすらありえず、戒を持っている人間をさがすことの方がむしろおかしいのであって、それらしく振る舞っている人ほどむしろマユツバなのではないか、と。
どうせ現代には正しい人間などいない。あるのは徹底的な悪であり、顕著となるものが欺瞞であれ欲望であれ、人間はすべからく悪人しかいない。そんないかなる悪も許される時代にあっては、ただ偽善のみが善であり、偽善の善を、仮面の善をこそ尊重せよ、と畳みかけてくるのです。
どこか都会的なシニシズムを感じさせる内容ですが、1月26日におうし座から数えて「立脚点」を意味する4番目のしし座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、ひとりの破戒僧としてどんな偽善や仮面を立てていくべきか、思い巡らせてみるといいでしょう。
どんな悪人をも救いとる光
『末法燈明記』のニヒリスティックなテイストからさらに一歩踏み込んで、親鸞は時代と人間の悪をなによりも自分自身のなかに見ていこうとしました。
救われない、どうにもしようもない悪の自分がいる。そういう自分を、浄土の教えは、阿弥陀さまは救ってくれたのだと、ひたすらほめたたえていったのです。ここで念仏とは、浄土を求めるための手段としてではなく、ただただ阿弥陀仏の偉大な力をほめたたえる感謝の行に他なりませんでした。
そこではいっさいの自力は無用なのであり、自分の善なる性質や善行によって極楽浄土に往生しようなどというのは、人間の思いあがりに過ぎないのだという思いが根底にあったのだと思います。
今週のおうし座もまた偽善の善を巧みに用いるにせよ、自己の力への絶望と懺悔によって他力に開かれるにせよ、末法の世でどのように身を処していくべきかという問題をめぐって振り切れるところまで突き詰めていきたいところです。
おうし座の今週のキーワード
絶望と感謝を深めあう