おうし座
ギシギシ>ふわふわ
どんなに未熟で苦手でも
今週のおうし座は、「ギシギシ」という在り方のごとし。あるいは、人としてどこか未熟で、スマートなんかではなくても、愛をぶつけていこうとするような星回り。
1992年に村上春樹が発表した長編小説に『国境の南、太陽の西』という作品があります。バブル絶頂期の東京を舞台に、主人公の「僕」が会社を辞め「ジャズを流す上品なバー」を開店し、妻子にも恵まれ裕福な生活をするものの、「なんだか自分の人生じゃないみたいだな」と思ったりする様が描かれていくのですが、文芸批評家の加藤典洋はこの小説のテーマは「中間がなくなった世界で、ひとはどう生きるか」ということにあるのだと言っています(『新対話篇 東浩紀対談集』)。
主人公は一人っ子という育ちに“不完全な人間”という自覚を持ちながら、成長と共にそれを克服しようとするのですが、たしかに村上が描くその人生展開はどこまでもフラットで、ねじれがありません。すなわち、人が世間に「もまれる」場所、善と悪とが泥沼になって足を取られるような、大人になる上で通過する中間領域が消失してしまっているのです。
そうした世界では、人はみな未熟なまま、「ひとづきあいが苦手なまま」、世界とどうつながり、コミットしていくかという課題が現われていきます。加藤はそこでは人は観光客のごとき偶然性に満ちた「ふわふわ」とした世界とのつながり方に活路を見出すだけではなく、「ひとづきあいが苦手」で未熟なまま、「デモなんかに行って国会のまわりをうろついたりする」ような、不毛で、不穏な「ギシギシ」とした世界とのつながり方も要請されていくるんじゃないか、という重要な指摘をしています。
その意味で、26日におうし座から数えて「他なるものとの関わり」を意味する7番目のさそり座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、愛を伝えていくためには他者とどう関わっていくべきかということが問われていくでしょう。
ダブルボディーな私たち
人は誰しも手土産ひとつなしに、ただ命だけを授かってこの世に登場し、しばらくの間その授かった命一つを息吹かせたら、また何も持たずこの世を去っていく。
しかしそれだけでは心許なく感じるのも人間であり、自分の中や周囲に身分や資格や名誉、習得した技術や資産、家族や友人、パートナーなどをまといつかせ、それらをまるで目に見えない衣装のように着込んで初めて生きた実感を得ているようにも見えます。
古代ギリシャでは、前者のような「剝き出しの生」や「内在の身体性」をゾーエーと呼び、後者のような「社会的な生」をビオスと呼んで区別しましたが、今のあなたもまた、通常はすっかりごっちゃになってしまっているこの両者の区別を改めて迫られているはず。
すなわち、安定的な生の拠り所であるかのようなビオスこそ、自分の溌溂(はつらつ)とした魅力や創造性を奪う拘束服に他ならず、愛を受け取ったり与えたりするのはむしろゾーエーの次元で行われるのだということ。今週のおうし座は、それを誰かの声を契機に思い出していけるかどうかがテーマなのだとも言えます。
おうし座の今週のキーワード
「王様は裸だ」