おうし座
受苦的なコミュニケーションを
荒魂/新魂
今週のおうし座は、「あらみたまバックミラーにあふれたり」(五島高資)という句のごとし。あるいは、死角から来ているものと視線を合わせていこうとするような星回り。
「あらみたま(荒魂)」は、神道に伝わる概念で、何らかのわざわいを引き起こすような神の荒々しい側面のことで、神のやさしく平和的な側面としての「和魂(にぎみたま)」と対をなしており、人々はこの荒魂と和魂を支えるために神に供物を捧げ、祭儀を執り行ってきました。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂ともされ、同音異義語である新魂(あらみたま)に通じるとされています。
掲句では、そんな風にどちらに振れるか分からないような「あらみたま」がバックミラー越しに溢れているのだと言いますから、これはただ事ではありません。しかし、何も言わずに走り去って、そのままなかったことにしようとすればできたところを、作者はそうしなかった。
虫の知らせか第六感か。いやもしかしたら、もうずいぶん前からスピードを出せば出すほど、こちらを追いかけ、すがりついてくる何かの気配にうすうす感づいていて、決死の覚悟でバックミラーに目を向けたのかも知れません。
そも、人が新たなフェーズに移行/移動しようとしている時というのは、得てしてこうした「あらみたま」と視線があってしまうものであり、それは視認しやすい前方ではなく、後方(死角)からやってくるものなのではないでしょうか。
7月18日におうし座から数えて「コミュニケーション」を意味する3番目のかに座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした気配のようなものを流してしまうことなく、きちんと捉えていきたいところです。
受苦的存在としての人間
高度医療社会が実現した「誰も病気で死ぬことがなくなった近未来世界」のその後を描いた伊藤計劃のSF小説『ハーモニー』には、掲句に垣間見える人間の根源的な共感性とは対照的な次のような一節があります。
わたしはシステムの一部であり、あなたもまたシステムの一部である。もはや、そのことに誰も苦痛は感じてはいない。苦痛を受けとる「わたし」が存在しないからだ。わたし、の代わりに存在するのは一個の全体、いわゆる「社会」だ。
意識が人間の機能として重要視されていた時代も、もう遠く昔に過ぎ去った。今からは推測することも難しいが、かつて「わたし」や「意識」「意志」が選択において重要な役割を果たすと信じられていた時代は決して短くなかったのだ。
ここで書かれた「苦痛を受けとる『わたし』が存在しない」かわりに、均質な体験を共有している一個の全体がある、というのは一種のディストピアに他ならないでしょう。そして、死の不安や生きていることの不条理さを感じないということは、生きている実感がないということでもあるはず。
すでに現代社会はそうしたディストピアに傾きつつあるようにも思いますが、そうであればこそ、不意に「苦痛を受けとる『わたし』」の存在を感じたり、苦しみつつもみずから誰かに寄り添ったりしていく体験もときに必要なのではないでしょうか。
今週のおうし座もまた、そうした受苦的な「コミュニケーション」の実践ということが、少なからずテーマとなっていきそうです。
おうし座の今週のキーワード
Discord(不和)を全身で受け止める