おうし座
逸脱とプネウマ
必要悪としての倦怠
今週のおうし座は、『金魚玉とりおとしなば舗道の花』(波多野爽波)という句のごとし。あるいは、待望の「うっかり」を炸裂させていこうとするような星回り。
「金魚玉」はガラス製のまるい金魚鉢のことで、「とりおとしなば」は“もしうっかり手から落としてしまったならば”という意味の仮定表現。
つまり、金魚玉を落とし、ガラスが割れ、赤い金魚たちが鱗をはためかせてピチピチとはね、灰色の舗道に大輪の花を咲かせるといった光景は、実際には起こっていない非現実であるわけです。
おそらく、作者は普段からアスファルトで舗装されたこの道をよく使っていたのでしょう。そして、道すがらの見慣れきった光景に、どこかで飽き飽きしていたのかも知れません。それでたまたま手に持った金魚玉にまつわる幻想が脳裏をよぎった。
「落としたらどうしよう」という不安は、見慣れた光景への倦怠とあいまって、「落としてしまった」という幻想へと昇華された。その意味で、「うっかり」という偶然によって反復されすぎた日常から逸脱していくことを、作者はどこかで待ち望んでいるのだとも言えます。
6月21日におうし座から数えて「遊び」を意味する3番目の星座で夏至(太陽かに座入り)を迎えていく今週のあなたもまた、そうした飽き飽きしている反復からの逸脱をどこかで決行していくことになるかも知れません。
鉛玉から穴の開いた玉へ
「うっかり」というのは、突如としてあらぬ方向からやってきては、いつの間にか去っていくという意味では、風と似たようなところがあるように思います。
風もまた四方八方から吹いてくるし、強くなってはなぎ、すぐに方向を変え、予測や予断を許しませんが、古代ギリシア語ではそんな風のことを「プネウマ」と呼んでいました。普遍的な実体としての「霊」のことです。
そして西洋哲学では、そんな風や霊がよどんで情念として沈殿した状態が、個別的な魂(プシュケー)であり、自分が自分であることの中核なのだと考えてきました。
そこでは、確固とした自分を持つことだとか、どんな風にもびくともしない堅牢な教会のごとき業績を残すことが、崩れにくい「優れた個人」の見本とされてきた訳ですが、そうした近代的なモデルの正しさはとうに崩れつつあるのではないでしょうか。
そういう意味で、今週のおうし座はこれまでの強固で鉛玉のような個人とは別の、もっとゆらめいたり、しなったり、情勢に応じてどこかへ流れていってしまうような「プネウマ」をよく通す、穴の開いた個人へとみずからをシフトさせていくことがテーマなのだと言えるかも知れません。
おうし座の今週のキーワード
アスファルトに咲く花のように