おうし座
コスプレするなら誰を装う?
一代の詩人
今週のおうし座は、蔵書が灰になるのを目の当たりにして立ち尽くす老詩人のごとし。あるいは、どこか心惹かれてやまない後ろ姿をそっと追いかけていくような星回り。
1946年に発表された石川淳の『明月珠』という短編小説があります。物書きの中年男性が主人公なのですが、彼がある事情から近くの空き地で自転車を乗りこなす練習に日夜明け暮れていると、その南側の崖の上を、ときおり孤高の雰囲気が漂う1人の老紳士が颯爽と歩いていくことに気が付く。
言うまでもなく、主人公の男は作者自身で、老紳士(「藕花先生」)は作品が発表された前年の東京大空襲で、住居としていた「偏奇館」と呼ばれる2階建ての洋館を失った永井荷風その人であり、この小説自体を大きな不幸に遭遇した荷風への一種の火事見舞いだったのでしょう。終わり近くには次のようなくだりがあります。
わたしはまのあたりに、原稿の包ひとつをもつただけで、高みに立つて、烈風に吹きまくられながら、火の子を浴びながら、明方までしづかに館の焼け落ちるのを見つづけてゐたところの、一代の詩人の、年老いて崩れないそのすがたを追ひもとめ、つかまへようとしてゐた。弓をひかばまさに強きをひくべし。藕花先生の文学の弓は尋常のものではないのだらう
どこかギリシャ悲劇の主人公を彷彿とさせる老紳士の姿は、おそらく作者が自身の目標として求め続けた文学者としての高みそのものであり、それは小説や随筆などの枠にとらわれずに執筆活動を展開した荷風を「一代の詩人」と表したことにも集約されていたように思います。
10日におうし座から数えて「夢」を意味する12番目のおひつじ座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、ひょんなことから自分でも自覚していなかった憧れの気持ちが湧き上がっていくことでしょう。
隠遁の真髄
『風俗文選』の「西行上人像讃」に松尾芭蕉の「捨てはてて身は無きものと思へども 雪の降る日は寒くこそあれ、花の降る日は浮かれこそすれ」という言葉がありますが、これは芭蕉が憧れの人であった西行に見出した、隠遁の真髄に触れている1節と言えます。
「捨てはてて身は無きものと思」うとは、人間らしい在り様をも捨ててしまったまったくの孤独の境地であり、離脱の極みとも言えますが、その裸身裸形の肌で雪の寒さ、花の美しさなど、大自然の与えてくれているものを素直に感じとり、そこから何ごとかを得ようとすること。それが隠遁ということの極限的な姿であると芭蕉は考えていたのでしょう。
これは先の小説の1節や、たとえば能楽で舞台上の恋愛や修羅の悲喜こもごもが終わったあとに諸国を旅する隠遁の僧が立ち上がり、「今まで鬨の声と聞いたのは松風や波の音であった」と語る場面などにも通じているように思います。
今週のおうし座もまた、西行のコスプレをして『おくのほそ道』の旅に出た芭蕉のごとく、懐かしくも新鮮な感情を思い出させてくれる面影をそっと追いかけていくことになりそうです。
おうし座の今週のキーワード
相即相入(そうそくそうにゅう)