おうし座
脱人間
夢中の心得
今週のおうし座は、動物の本質としての「放心」のごとし。あるいは、抑止解除するものに心奪われていくような星回り。
ハイデガーは、1929~1930年の講義の中で、動物の本質としての「放心」を示す鮮烈な例として、実験室で蜂蜜をいっぱいに充たしたグラスの前に一匹のミツバチを置いてみるという実験に言及しています。蜜を吸い始めた後で、ミツバチの腹部を切断すると、口が開いた自分の腹部から密が漏れるのを目にしてもなお、ミツバチはそのまま蜜を吸い続けるのです。
ミツバチは夢にも気づくそぶりはなく、いやそれどころか、まだ密があることに気づいていないからこそ、本能的な衝動をつづけるのだ。むしろ、単純にミツバチは餌にすっかり気をとられている。この気をとられているということが可能なのは、ひとえに、本能的な「外-向」が現前していることである。(『形而上学の根本諸概念―世界‐有限性‐孤独』)
つまり、「何かを何かとして知覚する可能性そのもの」がミツバチからは剥奪されているがゆえに、「そして、いまここでだけ、ということではなく、まったく与えられていないという意味で剥奪されている」がゆえに、ここで生じているのは、知覚することではなく、本能的な振舞い(夢中になっている)だけなのである、と。
その意味で、13日におうし座から数えて「高揚と逸脱」を意味する9番目のやぎ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした「放心」へと自身が開かれていくのを実感していくことでしょう。
現象としての“妖怪”
たとえば夜、川や谷で「シャリシャリシャリ」という、あずきを洗うような音がする。それは小豆とぎという妖怪が音を出しているのだ。そんな伝承が、かつては日本各地に残っていたそうです。
今どき妖怪なんて言えば、無知や妄信のレッテルを真っ先に貼られてしまいそうですが、しかし水木しげるさんや彼のよき理解者たちが口々に言っているように、そもそも妖怪というのは近代的知性によって「解明」され「克服」されるべき対象などではなく、ただ「感じる」ものなのです。
先の「小豆とぎ」という妖怪の存在にしても、濃い闇の感覚、水の流れる音や虫の声とは別に聞こえてくるかすかな物音、確かにそこに何か動いているものがいる気配、といった否定しようがない身体体験への感じ取りが前景化していった時に、ひとつの現象として仮の名称を与えられたものだと考えれば合点がいくのではないでしょうか。
今週のおうし座においても、そうした目に見えない、音や気や、不可解な「感じ」としか言いようがないものが、像を結んでひとつの疑いようのないリアリティーを作り出していくはずです。
今週のキーワード
触覚性感覚