おうし座
何かに運ばれて生きていく
地衣類の生存戦略
今週のおうし座は、さながら「共生」する地衣類のごとし。あるいは、自分を新しい岸辺へと押し流してくれるような奔流によって、運ばれていくような星回り。
地衣類は既知のものだけでも1万5千種以上もあり、それらは自立した生物学的存在ではなく、2種の異なる植物から成っています。ひとつは自ら光合成で食べ物を作る小さな海藻の類で、もうひとつは他の有機体に依存して生きる菌類。
このふたつが一緒になって、どちらの類とも外見上も生物史の上でも異なる第3の生物として、いずれも単独では生存できないような過酷な環境(灼熱の砂漠や山頂の残雪、真空状態など)に適応しているのです。
まさに奇跡のような驚くべき存在な訳で、特に藻類の方は単独でも生きられ、今でもそうしているものもいるということを考えると不可解な話ですが、菌類と一緒にいることで、藻類も乾燥や損傷などの脅威を免れることができるという恩恵をこうむっていることも事実です。
やはりこの強力なタッグなしには、地衣類は自然界で現在のような多様な展開をすることはできなかったはずでしょう。
そして、まさにそうした地衣類のごとく、既存の生息域を大きく超え出て、多様な展開へと乗り出していこうとしているおうし座の人たちにとっても、自分で自分の食い扶持を稼ぐだけに留まらない彼らのような在り方は、大いに参考になっていくはずです。
「か身交ふ」
地衣類と人類も生命史のどこかの時点では同じだったことを想うとふしぎな感じを覚えるかもしれませんが、人間の特質である「考える」という機能の本質について考えてみると、案外両者には通底するものがあるように思えてきます。
もともと「考える」という言葉は「か身交ふ(かむかふ)」から来ているのですが、最初の「か」には意味はなくて、つまり「身」をもって何かと「交わり」、境界線をあいまいにしていくことで、そこに新たな思考や生存戦略を生みだしてきたのです。
車の行きかう音や鳥の声、葉のそよぎに、月から漏れる柔らかな音楽。そういうものを見たり聞いたりしながら歩いているうちに、外なる自然と内なる自己が交わって親密な関係となり、いつの間にかこれまでとはまったく異なる人生を歩んでいた。そんなことだってあるでしょう。
そういう意味では、人間だって媒介としての身体と、風のようにゆらめく私を生きているのです。
つむじを巻いてはどこかへ吹き抜けていくとき、その風は身体を通して交わった者の思考をいつの間にか別次元へと連れ去っていく。今週はそうしていろいろなものと交わっていくことのできる可能性について思いを馳せてみるのもいいかもしれません。
今週のキーワード
連れ去り、連れ去られ