おうし座
商品と自由
アジールとしての市場
今週のおうし座は、みずからを市場に投げ込んでいくような星回り。すなわち、これまでいた世俗との何らかの形での「縁切り」を遂行していくような星回り。
中世日本社会において、市場(市庭)が世俗との縁の切れた「無縁」の場であるということは、歴史家の網野善彦などによって繰り返し指摘されてきました(『日本中世に何が起きたか』等)。
それは市場が自然と人間社会との境目で立てられ、神仏の世界に近接した場であっただけではなく、人々が自らの生産物そそうした人の力をこえた「聖なる場」―市場に投げこむことによって、それを「商品」としたからでもありました。
そして商品の「価値」を表示し、それ自体が商品交換の手段としての機能を果たした「貨幣」は、やはり神仏に捧げられ、世俗の人間関係から完全に切れた「無縁」の極致でなければならなかったのです。
このように商業などの経済活動はきわめて古くから、人の力を超えた「聖なる世界」や「神仏」と深く関わりながら展開されてきた訳ですが、今週のあなたもまた、さながら資本主義の源流にさかのぼるようにして、みずからをひとつの「商品」にしていこうという心の働きが力強く湧いてくるはず。
ただし、あくまで神仏のものであり、神仏のためという名目で用いられた捧げものとしての「商品」なのだということを、よく胸に刻んでおくといいでしょう。
戦いの場に立つこと
先の意味での「商品」と市場の関係いうのは、どこかサッカーボールとコートの関係に似ているように思います。
もう何年ものあいだ、石ころ1つ蹴っ飛ばしたことのない現代人は、あの頭蓋骨大のボールを相手のホームめがけて押しこんでやろうと皆して駆けだしていく戦士の姿を見て、何か失ってしまった大事なものを思い出すべきではないでしょうか。
人間の祈りや、情愛を細やかに表現する手の使用を禁止されたサッカーの世界では、勝つためのルーティンを創り出すか、でなければ、マンネリ化して立ち往生するか(思考や行動・表現などが型にはまって変化がなく、独創性や新鮮さに欠けていく)の2つにひとつ。
美しさの裏には、必ずどこかに冷徹なまでの残酷さが隠れているのだ。
今週はあらためて「戦いの原則」に立ち返りつつ、「世俗」や「自由」ということについて考えてみるといいでしょう。
今週のキーワード
私はたたかう