
さそり座
浅い夢から深い夢へ

「時間」の相対化の試み
今週のさそり座は、オルタナティブな時間感覚を求めて。すなわち、取り組んでる問題や対象そのものではなく、こちらの認識の仕方そのものを変えていこうとするような星回り。
ともすると私たちは、1日は24時間で、日付も西暦も気付くとどんどん進んでいて、もう2度と後戻りできず、変えることのできない客観的事実であると、時間について感じているわけですが、よくよく考えてみるとそんなことはありません。
例えば、社会学者の真木悠介は『時間の比較社会学』のなかで、<人生はみじかく、はかない>という命題について検討すべく、「年々歳々花相似たり/歳々年々人同じからず」という劉延芝の詩を引いて、やはり「客観的」で逃れがたい時間の事実をうたっているようにわれわれには思われるけれど、そうではないのだと釘を刺しています。
すなわち、それは時間の客観的事実ではなく、「人間のみの個別性にたいするわれわれの執着のもたらす感傷」に他ならないのだと。その際、「人生はみじかい」という実感が、単に他の人と比較しての相対的な不満でなく「絶対的なむなしさの意識」となるのは、「生存する時がそれじたいとして充足しているという感覚が失われ、時間が過去をつぎつぎと虚無化してゆくものとして感覚されるから」であると。
つまり、「時間」は事実というより感覚であり、「つくられたもの」である以上、心身の在り様や環境を変えてみることで「そうじゃない」時間感覚へと切り替えていくことが可能なのです。真木はさらに踏み込んで、そうしたオルタナティブな時間感覚の内容についても次のように言及しています。
われわれが、現時充足的(コンサマトリー)な時の充実を生きているときをふりかえると、それは必ず、具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているときだ。
6月11日に「拡大拡張」を司る木星がさそり座から数えて「遠くへ」を意味する9番目のかに座に移っていく今週のあなたもまた、普段生きている時間とは異なるもう1つの時間、いわば時間の源流への遡行を試みていきたいところです。
ディープ・ドリーム
例えば、オーストラリアの先住民であるアボリジニにとって、「現実」とは大地の奥深く潜む神聖な領域である「夢」の世界に、形が与えられていくプロセスに他ならないのだと言います。
文化人類学者たちが採集したエピソードの中には、夢の中で隣人を殺した村人が、次の日、その出来事を村長に告白し、その村人が隣人に対する償いを命じられたというものもある。もちろん、現実には殺していないにも関わらずである。これはすなわち、彼らにとって夢は現実と等価どころか、夢の世界こそが真実であり、より重視されるというアボリジニの世界観を浮き彫りにしてくれています。
夢についてはこれまでも多くの言説が展開されてきましたが、それは睡眠中の脳の働きから夢の機能を分析するものだったり、夢は現実を生み出す要素であるとするもの、連綿と継承されてきた太古の神性に帰属するとした見解、そして願望や深層心理といった物語的世界に収斂されるなど、じつにさまざまです。
ただ夢を語るという行為は、その自体がすでに「現実」を織りなしている多彩な制度的な規範に則っているがために、私たちはなかなか自分の見た夢をありのままに客観化できず、
先の表現で言えばオルタナティブな時間感覚に移行するのに少なからず苦労するはず。
その意味で、今週のさそり座のテーマもまた、自分が現に生きている現実に先行している夢へと意識の焦点をズラし、絶対などというものはないのだということを改めて実感できるかということになっていくでしょう。
さそり座の今週のキーワード
自分たちを夢見ているような、より根源的な夢にアクセスしていくこと





