
さそり座
治癒の秘密

縮図、受容、無常
今週のさそり座は、「雨に濡れ日に乾きたる幟(のぼり)かな」(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、ありのままの現実を深い哲理をもって受け入れていこうとするような星回り。
「幟(のぼり)」は端午の節句に際して、こどもの健やかな成長を願って数日間にわたって立てられる旗の一種のこと。一読して、至極あたり前のことを言っているように思えますが、「濡れ」「乾き」という変化に着目すると味わい深い句であることに気付くはず。
すなわち、雨が降り、やみ、太陽が照り、乾くという、短くも完結した天候のドラマとそれに要する時間の経過が詠まれているわけですが、その中で「幟」はただそこに立ち、自然の変化を受け入れているだけです。
これが人間であれば、濡れたら拭こう、早く乾かそうと能動的に行動してしまうものですが、幟はそんなことはしません。ただ無言ですべてを受け入れ、時間の流れの中で変化していく姿を示すのみ。そして、作者もまたそんな幟に応えるように、数日間にわたって愚直にその姿を観察し、そのありのままを句にしました。
その意味で、掲句は濡れて乾くという単純な変化の中に人生の縮図を織り込んでいくことで、生きていれば必ず生じてくる苦しみや困難に対する受容の美学と、どんなに栄華を誇る勢力や安泰に見える体制も長く続くことはないのだという無常観を浮かび上がらせているのだとも言えるかもしれません。
5月4日にさそり座から数えて「ロールモデル」を意味する10番目のしし座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、じっと立ち尽くす幟であれ、それを観察し句に詠んだ作者であれ、自身の願いを重ねられるような対象を見出していくことがテーマとなっていきそうです。
諦めと治癒
今はもう使われていない表現ですが『分裂病者と生きる』(1993年)という本があって、その中で編者のひとりである加藤清がまだ若い精神科医だった頃のエピソードとして次のような話が語られています。
いわく、壁面に頭を打ちつけて自傷行為をやめない患者を前にして、誰も何もなす術がなくなり、無力感にかられてみな呆然として立ち尽くしていたと。そのとき、加藤は突然、病室の隅にあったゴミ箱の中に入って土下座した。すると、それまで誰が何を言おうとしようと自傷行為をやめなかった患者が動きを止めて、加藤に注意を向けた。そして、その瞬間から治療行為が進み始めていったというのです。
加藤はなぜ、わざわざゴミ箱に入って土下座したのか。あえて言いきるならば、ここにはあらゆるレベルの治療や治癒という現象の秘密が現れているように思いますし、それは今のみずがめ座にとっても重要な指針になってくるでしょう。
加藤のしたことは、患者や同僚に対するある種の「超越」行為と言えますが、同時にそこには「自分ではどうにもならない」「救えない」といった患者の苦悩に対する諦めの深さと祈りの切実さがあるという点で、権力構造を伴なう操作や圧倒、マウンティングなどとは決定的に異なっていたはず。
今週のさそり座もまた、ほかならぬ自分自身に対して、そうした<諦め>ということを抱いてみるといいかも知れません。
さそり座の今週のキーワード
ゴミ箱に入って土下座する精神科医のように





