さそり座
発作的な居直り
飽きる自由
今週のさそり座は、『月に飽く夜道を寒き欠びかな』(佐久間法師)という句のごとし。あるいは、‟しらけ”の加速化を体感していくような星回り。
月のいい晩に、夜道を戻ってきている。はじめはさわやかな月の光をほめたたえ、どこか浮かれるような気持ちにもなったが、だんだん寒くなってくるし、退屈にもなってきてしまって終いにはあくびが出るというのです。
確かに、月に対しては日本人であれば否が応でもそれに反応しては楽しんだり熱中したりしなければならないといった空気感みたいなものがありますし、俳句や和歌のような、いわゆる風流がる人の多い世界では特にそうした文脈が強力に張り巡らされている。
そして、そうした過剰になにかをありがたがったり祭り上げようとする傾向というのは、現代日本においても欧米からの逆輸入的な文化や学説であるとか、政治家や経営者などの地位に対しても色濃く残っています。
もちろん、そうした傾向すべてに何の必然性もないなどと言うつもりはありませんが、何事においても本人の許容量を超えて摂取してしまえば飽きたり、受け付けなくなっていくのが自然な反応なのではないでしょうか。
その意味で、11月1日に自分自身の星座であるさそり座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、すでに許容量を超えて取り入れてしまっているものに「飽く」ことをみずからに許可していくことがテーマになっていくでしょう。
発作的な蒸発
ここで思い出されるのが、20世紀前半のアメリカを代表する作家シャーウッド・アンダソンの人生をめぐる神話です。
一九一二年の一一月末のある日、「長い間、川の中を歩いていたので、足が濡れて冷たくなり、重くなってしまった。これからは、陸地を歩いていこうと思う」と、謎めいた言葉を残してアンダソンは失踪する。小規模とはいえ塗料販売会社社長の地位を投げ捨てたばかりか、妻と三人の子どもたちのいる家庭も捨て、これからの貴重な人生を文学に捧げるべく、成功追求の世界に別れを告げたのである。この時、彼はすでに三十六歳になっており、ポケットにはわずか五、六ドルの金しか入ってなかったという。(『シャーウッド・アンダソンの文学』)
真相は会社の経営不振からくる心労のため、神経衰弱となった結果だったとされており、これが後に「虚偽の生活を捨て、真実を追求するための脱出」として好んで語られることになったいわゆるアンダソン神話のあらましなのですが、新天地をとぼとぼ歩き続けたであろうアンダソンの後ろ姿は、どこか掲句の作中世界とシンクロしていないでしょうか。
当時のアメリカ人の平均寿命は50~60代後半であり、36歳はもはや晩年に差し掛かりつつある年頃でした。その歳になってもまだ芽が出ないという焦りから、「わたしはわたしである」という一貫性を打ち棄ててしまうという、一種の解離症状を呈した上での発作的な行動だった訳で、見方によっては究極の居直りだったとも言えます。
今週のさそり座もまた、何らかの仕方でこれまで維持してきた一貫性を打ち崩す大胆な方策に打って出ていくことになるかも知れません。
さそり座の今週のキーワード
自分自身にゾッとする