さそり座
思いをのせて
異界との交通
今週のさそり座は、異界へ通じる踏み切りの前でボーっと佇んでいるかのよう。あるいは、「自分はどこまで行けるのか」を確かめていこうとするような星回り。
考えてみれば、死者であれ何であれ、異界との交通というものをほとんど遮断してしまった東京のような大都会は人が生きていくには不自然きわまりない場所であり、例えば京都のように死者たちの世界が周辺に広がり、地下には地獄への通路も開かれている街の方が、やはり“異界との交通”という点では風通しがよく自然なように思われます。
もちろん、“異界”は必ずしもはっきりと明確にイメージされてきた訳ではなく、漠然としていて混乱していますが、そこには決して“迷信”という言葉では割り切れない何かが含まれているのではないでしょうか。
例えば、日本の浄土教の祖と称され、平安中期に生涯にわたり比叡山横川に隠棲した源信(げんしん)は、浄土に往生するためのイメージや方法論を、切実で現実的な願いに応えるような形にして『往生要集』という本にまとめ、広めていきました。
一箱の肉体は全く苦である。貪り耽ってはならない。四方から山が迫ってきて逃げるところがないのに、人々は貪愛によって蔽われ、深く色・声・味・触の欲望に執着している。永遠でないのに永遠に続くと思い、楽しみでないのに楽しみと思っている。(中略)まして刀山・火湯の地獄がそこに迫っている。(川崎庸之・秋山虔・土田直鎮/訳)
すぐそこに地獄が迫っている、それは刀が歯列のように永遠と並んでいる山であったり、煮えたぎるマグマをたたえた大釜とじつに鮮烈ですが、楽園に限らずこうしたさまざまな世界イメージの一切を切り捨ててしまえば、生きている者の世界もまた殺伐とした貧しいものにしてしまうように思います。
翻って、1月11日にさそり座から数えて「フットワーク」を意味する3番目のやぎ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、やがて自分がそこへ行き着くかも知れない世界や、その選択にあたってどんな準備をしなければならないかが問われていくはず。
「海石榴市の八十の衢(やそのちまた)」
万葉集や日本書紀にも詠まれた「海石榴市(つばいち)」は、奈良の三輪山の南西に所在して開かれた交易市のことで、古代の市としては最もよく知られたものと言えます。
その名の通り、当時椿(つばき)の実から採る油は食用、燈火用、化粧用に広く珍重されて交易の中心となっており、市が立つからには諸方から訪れた男女がそこで出会い、歌垣(うたがき)すなわちお互いに求愛の歌謡を掛け合う呪術的な習俗の場所としても聞こえていました。
多くの人々がかたみに歌を詠み、心を通わせ、愛しあったその地が、他ならぬ椿市であったのはいかにもゆかりのあることで、早春から晩春まで火の紅の花を咲かせ続ける常緑樹である椿は聖樹、ご神木のたぐいであり、古代人は畏れをもってそれを眺めたのでしょう。
と同時に、彼らはただ何かをボーっと眺めていたのでなく、そこにおのれの思いをのせて、椿油に火を灯すように、情念の炎を燃やしていったのだということを、われわれは思い出していかねばなりません。
生きるとは、まず第一に出会うことであり、そこでどれだけいのちの炎を燃やしていけるかなのではないか。今週のさそり座もまた、そんなことを自身の胸に直接問いただしてみるといいでしょう。
さそり座の今週のキーワード
地下には地獄への通路が開いている