さそり座
プライドの固まりを溶かす
つかみどころのない曖昧な状態に戻っていく
今週のさそり座は、漠然とした「場」としての<わたし>のよう。あるいは、身体を通してプライドのねじれやこじれをただしていこうとするような星回り。
時としてプライドが変な仕方でこじれてしまうのはなぜか。その要因の一つに、<わたし>すなわち、「わたしが、いま、ここでなにかを知覚している」という出来事を、わたしたちがついつい「もの」として捉えてしまうことが考えられるのではないでしょうか。
つまり、近代科学が金科玉条としてきた「対象を客観的に見ることができる」と言うときの対象物こそが「もの」であり、そこでは主観と客観が明確に分かれていて、「人間と自然」とか、「私とあなた」、「自分事と他人事」などの構図が生まれてくる訳です。
一方、例外なくすべてを「こと」として、すなわち、すべてを客観的に固定することなく、きわめて不安定な仕方でとらえることを自身の仕事上の姿勢としていた哲学者のノース・ホワイトヘッドは<わたし>についてもまた、他のもろもろの現象と同じように、精神的なものや身体的なものが、時々刻々と変容し続けている、つかみどころのない曖昧な状態であると考えていました。
たとえば、われわれの身体は自分自身の個的存在を超えて位置している。けれども、その身体は、個的存在の一部なのだ。われわれは自分のことをこう思っている。つまり、人間というのは、身体で営む生活ととても親密にからみあっているから、身体と精神との複合体だ、と。だが、身体は外界の一部なのであって、外界と連続している。実際、身体は自然のなかのなにか、たとえば、川とか、山とか、雲といったものとおなじように、まさに自然の一部なのだ。また、たとえわれわれが過度に厳密になろうとしても、身体がどこからはじまり、外部の自然がどこで終わるのか、といったことを定義することはできない。(ホワイトヘッド、藤川吉美・伊藤重行訳『思考の諸様態』)
プライドという言葉に漂う、どこか閉鎖的でがんじらがらめなムードは、こうした外界と連続した身体的背景の次元において、どこかに雲散霧消していくはず。その意味で、9月23日にさそり座から数えて「無為」を意味する12番目のてんびん座への太陽入り(秋分)を迎えていく今週のあなたもまた、みずからをある漠然とした「場」として意識してみるといいでしょう。
ロールモデルとしてのバカ姉弟
安達哲の『バカ姉弟』という漫画があります。タイトル通り、この漫画は巣鴨という街で両親と離れて2人だけで暮らす姉のおねいと弟の純一郎という双子の幼児と、それを取り巻く住民たちのお話です。彼ら姉妹は確かに天然なのですが、さりとてただの天然という訳でもなく、はなから悟りを得ていて、しかもそのことをすっかり忘れ去っているような存在として描かれています。つまり、先の漠然とした場としてのわたしの体現者なのです。
彼らを幼児と思って近づいてくる欲望まみれの大人たちは、ふだん社会で使っている方便やおためごかし、セコさ、忖度をそのまま彼らに繰り出してくるのですが、2人はそうした発言や行動の真意をいともやすやすと見抜いてしまう。しかも、声を荒げてそれを指摘したり、歯向かったりするのでなく、ただじっと見ているのだから、余計に恐ろしい。
例えば、双子を可愛がる母の友人・志津香さんが2人を叱ろうと、育児書で得た「まず褒めてから叱る」を忠実に実行してみせた時も、2はピタリと動きを止めて志津香さんを見つめ、心のなかで「あやつっている…」とつぶやいてみせるのですが、こういう真似は常人にはなかなかできません。
なぜか。それはどうしたって関わる相手に期待しすぎてしまうか、少しも気を許してはならないと思い込むかのどちらかに偏りすぎてしまうから。姉妹のように、その中間にふんわりと留まっていられないのです。その点、今週のさそり座であれば、どこかそんな彼らの在り方にそっと近づいていくことができるはず。
さそり座の今週のキーワード
われわれの身体は自分自身の個的存在を超え、自然の一部としてそこにある。