さそり座
小さな支流をつくっていく
なつかしき場所
今週のさそり座は、『草笛の鳴るまで父を見上げゐる』(大串章)という句のごとし。あるいは、俗世とは別の時間に入り込んでいこうとするような星回り。
おそらく、作者にとって「草笛」は郷愁のシンボルなのでしょう。掲句では、そこにさらに親子の情が重なっていきます。父子久々の再会、ないし2人きりの時間だったのかも知れません。
草笛を教えてやろうと子に言ってみたものの、昔のようにはうまくいかない。しかし、教えられる子のほうも、昔のようにすぐぐずったりどこかへ行ってしまう訳ではない。もちろん、やっと草笛が鳴ったときには父も子もほっとしたことでしょう。しかし、うまくいかなさを受け止めつつ、じっと草笛が鳴る瞬間を待っている時間とその描写こそが、読む者の胸を打つのであり、その時間の分だけ、作者は少年のころの自分に戻っていったはず。
その意味で、作者にとって郷愁とは俗世をしばし離れて憩うことのできるユートピアであり、日常とはまったく異なる時間の流れに浴すことのできる特別な場所だったに違いありません。
同様に、12日にさそり座から数えて「心の基盤」を意味する4番目のみずがめ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした自分にとっての憩いの場所に立ち返ってみるといいでしょう。
書法としてのデタッチメント
かつて村上春樹は、河合隼雄との対話のなかで、29歳になったときに「ある日突然」「小説が書きたくなった」のだとして、それを次のように語っていました。
仕事が終わってから、台所で毎日一時間なり二時間コツコツ書いて、それがすごくうれしいことだったのです。(略)自分の文体をつくるまでは何度も何度も書き直しましたけれど、書き終えたことで、なにかフッと肩の荷が下りるということがありました。それが結果的に、文章としてはアフォリズムというか、デタッチメントというか、それまで日本の小説で、ぼくが読んでいたものとまったく違ったものになったということですね。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』
自分の表現したいことを表現するために、それまで自分が触れてきた小説と「まったく違った形のもの」を「自分の文体」として作りあげなければならなかった。そのためには、いったん「日本の小説の文体」から離れなければ、その痕跡をこなごなに砕いて、少しずつ消し去っていく作業を行わなければならなかったと。
そうした創作への態度の根底にある衝動について、村上は「ものすごく個人になりたい」とか、「社会とかグループとか団体とか」から「逃げて逃げて逃げまくりたい」、すなわち“世間”から距離をおきたい、離れていたかったという言い方でも言及していましたが、
今週のさそり座にとっても、そうした村上の初期の創作態度は大いに指針となっていくはずです。
さそり座の今週のキーワード
せっかく獲得した「世間」を帳消しにしていく