さそり座
波打つ時間と生命と
生命感の内在体験
今週のさそり座は、『焚火中炎のせては落葉失せ』(上野泰)という句のごとし。あるいは、日常とは別の場所へと心を移動させていこうとするような星回り。
山のように積まれた落葉に火が放たれると、たちまち煙が立ち、やがて明るい炎が眼前に迫ってくる。そんな炎にジッと見入っているうちに生まれた一句。
さながら一枚一枚の落葉が生きているかのように、落葉に炎をのせては燃え上がり、大きな、落葉の山を包む全体の火となっては失せていく。
焚火の中で起きている出来事をこうして叙されてみると、実際、そこに生命のようなものが宿っているように感じられてくるはず。じっと見つめたものの中から、おのずから得た生命感の内在が、掲句を深いものにしているのでしょう。
そうして深く炎に見入られるほどに、孤独な夜の中で平板だった時間が波打ちはじめる。常識にかたどられた義務感と、夢想の自由とのあいだで揺らぐほどに、身体がだんだん軽くなって垂直性の次元に連れ去られるのです。
11月1日にさそり座から数えて「精神の深まり」を意味する4番目のみずがめ座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、平行に上滑りしていくようなクロノジカルな時間からいかに抜け出していけるかがテーマになってはず。
古代人として在るということ
『デサナ』という本があります。副題には「アマゾンの性と宗教のシンボリズム」とあり、そこには『万葉集』にも通じるような、古代人特有のセクシャルな想像力やアナロジー(類比)の能力が縦横に展開されている様子が伝えられています。
「魚をとりに行った」という文句からはじめよう。男だけが魚とりをするゆえに、ただ一つの対象である魚に言及されている。隠喩レベルではこの文句は「魚は女である」ということで、デサナの女たちは魚とりの部族からきていること、川は女性要素であり、魚は女性価値の食物であること、すなわちこの性質が暗黙に魚に帰せられているから、この間の比較は暗黙のうちに全員によって理解されている。川を原因にとり魚をその結果ととるとき、「川の女たちは」という風に換喩を用いることができる。
魚と言えば、イエス・キリストもまたしばしば魚について言及し、「真理を生むもの」という比喩をあらわすためにそう表現した訳ですが、先の引用においては「魚をとりに行った」というのは交合の意味でしょう。
先住民というのは人類の初期能力を保存している人々であり、彼らは性エネルギーこそが、人間の世界と動物の世界ひいては宇宙の世界を貫いて流れている共通言語であることを知っており、だからこそ豊穣への祈願を行う際には必ず性的な符合がそこに使われたのです。
今週のさそり座もまた、合理主義や進歩史観など近代人的な思考の枠組みから少しだけでもはみ出していくことがテーマとなっていきそうです。
さそり座の今週のキーワード
感受性の古層を掘り起こす