さそり座
息の転換の道
たましいに休息をもたらすために
今週のさそり座は、ツェランの隠喩のすばらしい硬さと訳語の選択のごとし。あるいは、価値ある特別さを安易な“分かりやすさ”で塗り潰してしまわないよう注意して扱っていくような星回り。
詩が真正であるとき、人はそれによって日常の息苦しさから救われることがあります。とはいえ、日常に氾濫する言葉が、がまんできないほど軽々しく、まずしくなってしまっている昨今では、そうした明快で深い真実はますます忘れられがちになっていますが、それゆえに、その貴重さや価値もまたかえって際立ってきていように思います。
例えば、生の喪失と痛みを秘めたパウル・ツェランの詩には、しばしば硬質な隠喩が登場してきます。終わってしまった愛の時間について「ぼくは咲き終わった時刻の喪章につつまれて立ち」と表現され、夏の草地につけられた一本の小径について「空白の行が一行、」(中村朝子訳)と表されるのですが、こうした日常と硬く対立したところで構築された隠喩やその訳語は、この国の詩と柔らかさとのうんざりするような低調な同一視とも一線を画していることがわかるはず。
もちろん、それはギリギリのところで成立している危うい稜線歩きのようなもので、やりすぎれば意味が繋がらなくなる転落の危機に陥る一方、異なる体験の質によって書かれたことばを無理やり手馴れた日本語の言語世界の範囲内に押し込めようとすれば、その本来の魅力や詩としての真正さは失われてしまうでしょう。
その意味で、9月4日にさそり座から数えて「深い実感」を意味する2番目のいて座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、ことばの軽々しく、まずしい使用に反旗をひるがえしていくべし。
どこかしらで無法者であること
詩人に限らず、芸術に関わってきた者たちの歴史を紐解けば、古来より「何を知り、何を為すべきか」という問いに対し社会が用意した“正しい”解答や間違いのない役割にハマっていく代わりに、余計なことばかり知りたがり、やりたがる者たちによって、「魂」の多様性は耕され、育まれてきました。
例えば日本神話においても、日本で最初に和歌を詠んだとされる芸術神スサノオは、神話においてしばしば無法者や乱暴者とされ、規定された定位置から追放され、辺境をフラフラとさまようことで、やっとその本来の創造性を開花させ、その種を撒いたのです。
また、他の世界各地の神話を見ても、多くの場合、魂は自然に翼を生やして飛び立つことができるものとされ、当初定められた日常世界から漂い、ズレ続けていくことで霊的気息を整えていったのです。
今週のさそり座もまた、「~すべき」といった意識の呪縛をできる限りほどいて、精神に幾らかの「逸脱」をゆるしていくこともまた心がけてみて下さい。
さそり座の今週のキーワード
危うい稜線歩き