さそり座
偶然から偶然への跳躍
ふと見えてしまったものを受け止める
今週のさそり座は、『ふとわれの死骸に蛆のたかる見ゆ』(野見山朱鳥)という句のごとし。あるいは、死をポケットに携えて歩いて行くような星回り。
みずから見ようとして見た訳ではなく、たまたまふと見えてしまった景であるにも関わらず、それがいつまでも脳裏に焼き付いて離れず、じわじわとその影響を受け続けてしまうということが人生にはあります。
掲句もまた、そんな景のひとつだったのでしょう。そこでは、すでに自分は死んでしまっていて、その死骸に蛆(うじ)がたかっていたのです。
それは病室や畳の上での平穏な死ではないことは明らかで、誰にも見守られることなく不慮の死に見舞われたあと、しばらく放置されることがなければこうはならないはず。
「俳聖」と呼ばれた芭蕉は、旅先での野垂れ死にを理想とし、功成り名を遂げてからもなお俳諧の深みに達しようと決死の旅に出て、それは後に『野ざらし紀行』という紀行文となり、その文中最初の句には「野ざらしを心に風のしむ身かな」という句が詠まれましたが、それもまた“ふと見えてしまった景”だったのかも知れません。
30日にさそり座から数えて「小さな死」を意味する8番目のふたご座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、受け入れるべきことを受け入れたら、あとはまったくの偶然へと身を任せていくべし。
宙を飛ぶ瞬間
芭蕉や朱鳥を見ていると、俳人というのはどこかブランコ師と似ているようなところがあるというような気がしてきます。そしてここで歴史的事実とは無関係に勝手な推測をするなら、サーカスの天蓋ではじめて空中ブランコが催されたとき、そこには誤って地面に落ちたブランコ師を救うネットはまだ張られてはいなかったのではないでしょうか。
というのも、もし落ちてしまったらどうなってしまうんだろうというハラハラドキドキも含めての見世物で、そこでは空中で結ばれあう手と手こそが主役であって、それ以外の不必要なものの一切は省かれていたはずだから。
その意味でブランコ師とは、何かひとつ間違えばたちまち死んでしまうという極限状況を創りだす一種の職人であり、1台のブランコから相方が待ち受けているもう1台のブランコへ、そして生を与えられた偶然から生を失う偶然へと、一切を捨てて宙を飛ぶ瞬間こそ、不安と緊張が凝縮したひとつの「作品」に他ならず、同じ空間にいるすべての者にある決定的な余韻を刻印していくのです。すなわち、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という瞬間をいつかきっと自分も実際に体験するのだ、と。
その意味で、今週のさそり座もまた、ブランコ師の見習いになったくらいのつもりで過ごしてみるといいでしょう。
さそり座の今週のキーワード
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ