さそり座
祈りの内実
触覚的ユーモア
今週のさそり座は、「死に行くときも焼きいもをさはつた手」(宮本佳世乃)という句のごとし。あるいは、感覚的にみずからの人となりを思い知らされていくような星回り。
冒頭の「死に行く」で暗い予感を抱かせつつも、「ときも焼き芋」と何か柔らかく包まれるような感触を音の連続で想起させ、最後は「さはつた手」に残された余韻を味わう。
人が死ぬ前に見ると言われる走馬燈はあくまで視覚的な体験だが、掲句に詠まれているのはもっと原始的で本能的な、つまり触覚的なそれだ。
いよいよのときにふっと思い出すのは、かつて誰かの背中に感じたぬくもりだろうか、それともある冬の日に寒さで感覚を失った手に抱いた「焼き芋」の熱だろうか。案外、後者なのかも知れないし、その意外さに自分でも笑ってしまいそうなところが妙にリアルでもある。だが、それは決して滑稽さなどではなく、人間の心象世界というものにどうしたって入り込んでくる一種のユーモアであり、それをその人なりの人間味と呼ぶのだろう。
同様に、25日に自分自身の星座であるさそり座で下弦の月を迎えて行く今週のあなたもまた、どうしたって消せないみずからの人間味を味わっていくことになるはず。
生命の再現
ここで思い出されるものに、ロダンの『カテドラル(大聖堂)』と名付けられた彫刻作品がある。厚みや大きさ、手首の細さが異なる二つの手によって構成されているのだけれど、二つの手が今にも触れ合おうとしているのか。それとも、離れる瞬間なのかは分からない。ただ、いずれにせよ、そこには不思議な宇宙性と宗教性が横溢しているのだ。
どうしてこのような作品がつくられ、祈りの場である大聖堂の名がついたのか。周囲の人々の熱心な聞き取りから生まれた『ロダンの言葉抄』に、次のような一節がある。
(宗教とは)無限界、永遠界に向かっての、きわまりない智恵と愛とに向かっての、われわれの意識の飛躍です。多分夢幻に等しい頼みごとでしょう。(中略)線と色調とはわれわれにとって隠れた実在の表象です。表面を突き通して、われわれの眼は精神まで潜りこむのです。
そうして、彼にとっての宗教体験と制作哲学とが結びつけられてから、こう続けられる。「よき彫刻家が人間の彫刻をつくるとき、彼が再現するのは筋肉ばかりではありません。それは筋肉を活動させる生命です」。
今週のさそり座もまた、自分が人生に対しどのような「隠れた実在」を思い浮かべるのか、そこで何を祈り、どのような形で具現化しようとしているのか、改めておのれに問うていくことになるだろう。
さそり座の今週のキーワード
祈りの場としての両の手