さそり座
否定すなわち浄化
「たまたま」に身をゆだねる
今週のさそり座は、すべてを否定する「ダダ」という言葉のごとし。あるいは、人間は、自分はかくあるべしと規定する規範を不意にすり抜けていくような星回り。
第一次大戦中に誕生し、ほんのひと時のあいだ花開いては、慌ただしく消えていったダダイズムは、芸術運動における伝統への異議申し立ての極端な事例のひとつでしょう。その運動の中心人物であるトリスタン・ツァラが「ダダは何も意味しない。(…)ダダは体系に反対する」と断言したように、それはあくまで一貫して純粋な否定として燃え上がった破壊と劫掠の試みでした。
ちょうど「ダダ」という言葉自体が偶然に辞書から見つけ出した「お馬さん」を意味する幼児語を指したとされているように、その運動では文化、政治、社会など既存のすべての体制を、惰性としての因果的必然性と見なして激しく否定することで、この世と向きあう私たちの脳裏から実用性という外観をひきはがし、純粋で混じり気のない「たまたま」が生みだす驚くべき新世界へと精神をいざなおうとしたのです。
その結果、アンドレ・ブルトンが「すべてを棄てよ。ダダを棄てよ」と叫んでダダと決別したように、みずからの運動化や体系化、組織化をも否定するという流れを余儀なくされた訳ですが、こうした偶然性と自由の切っても切り離せない関係は、今もなお個人においてより深く掘り下げられていく余地がたぶんに残っているはず。
その意味で、18日にさそり座から数えて「アイデンティティ・クライシス」を意味する9番目のかに座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、単なる無軌道のたぐいに出さないぎりぎりのラインで、自身を偶然にゆだねてみるといいでしょう。
E・ヤコビーの『火の種撒き』
夕闇に覆われた街の空に、巨大な姿をした幽霊のごとき「種撒き男」が、火の粉のような種を撒いている絵である。彼は街に炎をまいているが、それは一種の見えない火であり、街の方はそれに気付いていないし、火災も実際にはどこにも起こっていない。
一見するとつかみどころのない絵なのですが、深層心理学者のカール・ユングは「この絵はたがいに浸透し合いながら触れ合うことのない、二つの世界の懸隔(けんかく)を描いている」と見立てました。
なるほど、巨大な種撒き男は開けた野原と人間の住んでいる街のどちらにも火をまいているが、それは無意識と意識、野生と文明、身体と頭、女と男など、あらゆる二元性の隠喩であるかもしれず、撒かれた火は「焼き尽くす」ことで破壊的な浄化をもたらす議論の「口火」であるのかも知れません。
今週のさそり座もまた、傷つかない範囲内でのみ活動するのではなく、その"外”と"内”とのはざまに立っておのれを大いに揺らがせてみるべし。
さそり座の今週のキーワード
小さな自我と大きな自己