さそり座
漫をひっくり返した自由
「漫といふもの」
今週のさそり座は、宮沢賢治における「漫の病」のごとし。あるいは、我が身をすすいで洗い清めていくような星回り。
かつて宮沢賢治は、友人への書簡のなかで次のように自身の胸中を述べていました。
私のかういふ惨めな失敗はただもう今日の時代の一般の巨きな病、「漫」といふものの一支流に過(あやま)って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ……
賢治はこうして自分が陥っていた状態をあえて「漫の病」と呼んで、若い友人にそうならないよう諭してみせたのです。SNSが発達した現代社会は、賢治の時代と比べ、はるかに「漫といふもの」に身を加えやすい環境にありますし、有名になることそのものが自己目的化している人があまりに多いように感じますが、「漫」とはどんなに気を付けていてもへばりついてくるものなのかも知れません。
9月23日にさそり座から数えて「浄化」を意味する12番目のてんびん座へ太陽が移る秋分を迎えていく今週のあなたもまた、賢治くらいの姿勢で自身の「漫の病」を見詰め直していきたいところです。
東洋的自由と西洋的自由
この世のしがらみからの解放。そんな自由をほんの一時でも満喫していくことを大切にしていきたい今週のさそり座ですが、ここでひとつ留意しておきたいことがあります。
というのも、「自由」という言葉には明治期以降、伝統的な意味に加え、欧米の翻訳語としての新しい意味が混ざっていったため、私たちもどこかいくつかの自由を混同してしまっているのです。この点について、例えば禅僧の鈴木大拙は次のように述べています。
西洋のリバティーやフリーダムには、自由の義はなくて、消極性をもった束縛または牽制から解放せられるの義だけである。それは否定性をもっていて、東洋的の自由の義と大いに相違する。(…)自由には元来政治的意義は少しもない。天然自然の原理そのものが、他から何らかの指図もなく、制裁もなく、おのずから出るままの働き、これを自由というのである(『東洋的な見方』)
ここで指摘されている後者の自由こそが、本当の意味でおのれが静かである(自意識がうるさくない)ということなのかも知れませんね。
勝手気ままに振る舞うのでもなく、義務の免除や発現行動の許可を自由と勘違いするのでもない、今こそ「自由」な生活を謳歌していく時です。
さそり座の今週のキーワード
おのずから出るままの働き